旅の記録(2019年11月/草津町)その2

引き続き、草津への旅行の記録。

その1はこちら↓。

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【二日目】
 朝7時半頃起きる。窓の外を子どもが走って行く声がする。平日だから、草津の子どもたちも学校へいくのだ。起きて、宿の風呂に入る。湯畑源泉から引いている温泉だということだった。今回の宿は、合宿所のような宿で、部屋は4畳半にこたつとテレビがあるきりで、トイレは共用。洗面台も外で、誰かが歯磨きをしたあとなのか、ご飯粒のかけらが流れないで溜まっている。部屋の鍵もじゅうぶんにはしまらない。こういうのも懐かしいな、と思いつつ、でも楽しいかっていうとそんな楽しくはないので、次回は別の宿にしようと思う。前夜の夕飯に引き続き、朝ご飯もやはり大盛りであった。
 9時半頃チェックアウトして、10時から開くという「リーかあさま記念館」を目指してふらふらと散策する。コンウォール・リー頌徳公園という公園があり、その公園で少し紅葉を観賞し、コンウォール・リーさんの胸像をみる。

 10時過ぎに、リーかあさま記念館へいく。小さな資料室だった。行くと、ガイドのかたがコンウォール・リーさんの功績についての短いビデオを見せてくれる。そして、コンウォール・リーさんと、草津ハンセン病の歴史についてかなり詳しく解説してくださった。私は、湯ノ沢地区から栗生楽泉園への移住にいちばん関心があったので、湯ノ沢地区とコンウォール・リーが行ったバルナバ・ミッションの施設を示しながら、地図で説明してくださったのがとても有り難かった。
 いろいろとコンウォール・リーの事跡を聞いたが、一つ印象的だったのは、彼女がまず初めに取り掛かったのが女性のためのホームを作ったということだった。ハンセン病の罹患者は男性のほうが多く、湯ノ沢地区では少数であった女性が苦しい立場に置かれており、コンウォール・リーはまず独身女子のための居住空間を作ったのだそうだ。当時コンウォール・リーは50代なかば。どんな気持ちで、極東の島国の、さらに奥地も奥地の雪深い草津で、最初に女子に目を向けてホームをつくったのだろうか、と考える。もうちょっとこの人のことを知りたい、と思う。
 
 「リーかあさま記念館」では、コンウォール・リーさんのことだけではなく、ハンセン病一般や草津温泉のことについてもいろいろと教えていただいた。草津温泉の開湯伝説はいろいろとあるが、草津に湯治にきた記録として確認できるのは、大谷吉継という福井の武将が、直江兼続にあてた書簡があるらしい。その書簡に大谷は、草津に目の治療に来て、少しよくなったと書いているという。それを考えると、おそらく1500年代後半にはここは温泉地であったことはたしかだろう、ということだった。大谷は覆面をして絵に残っており、おそらくハンセン病だったのではないか、ともいわれているそうだ。


 歴史の中で、多くのひとがハンセン病にかかり、病原菌などがもちろん分からないなかで、それぞれが苦労して少しでも自分の身体に良いことを求めて、旅をしていたことを思う。故郷を追われることを余儀なくされて、家族に迷惑をかけられないとやむにやまれずに出奔したひともいただろう。そちらのほうが多いかもしれない。以前、三重・和歌山の熊野地方に行った時も、ハンセン病の湯治客や旅人がいたという話を聞いた。ハンセン病は、内臓は侵さず、比較的温度の低い皮膚のしたや感覚器官を冒す菌だという。だから殺菌力の高い酸性の温泉に入ると皮膚病などが少し良くなった感じがあったのかもしれない。その感じを求めて、多くのひとが温泉地へ集まった。自分の病を治したかった人だけではなかっただろう。「天刑病」と言われたり「遺伝病」と言われたりしたハンセン病の患者は、家族に迷惑をかけないために故郷を出ざるをえなかった人が多かったはずだ。患者たちは、家族と一緒に生まれ故郷で過ごすことを諦め、死んでから一緒に墓に入ることさえ許されなかった。火葬場の煙として、はじめて故郷に帰れる……そんな患者が、何百年も前から日本の至るところにいた。

 近代化の過程でそれらの人びとは「医療」の名のもとで展開される差別的処遇に取り込まれていくことになる。

 少し面白かったのは、これもガイドのかたに伺ったことだが、明治時代以前からハンセン病の湯治客を受け入れてきた草津からは、ハンセン病の患者は出ていないのだという。だから、ハンセン病感染症だということが分かり、療養所が作られるとなったとき「まさかうつる病気だなんて」と草津の人が言ったのだそうだ。感染症であるなんて誰も考えたことがなく、草津では健康な人と病人とが同じお湯に浸かってきた。それは人道的配慮でもなんでもなく、病人は草津温泉を支える収入源のひとつでもあったのだ。ハンセン病は伝染らないという前近代の素朴な経験則が、ある意味では正しかったということになる。(もちろん、うつらないというわけではなくて、免疫とか栄養状態が悪ければ伝染して発症する。インドやブラジルなどでは、今もハンセン病の患者は増え続けており、感染対策が必要な病気である。)

 今回の旅で、湯ノ沢地区のような自由療養地区が、町の公認のもとで成立していたと言うことを知った。草津で病人を含んで成立していた経済が、隔離へと変化していく過程とはどのようなものだったのか。もっと詳しく知りたいと思った。勉強しようと思う。

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 リーかあさま記念館に結局1時間ほどいて、その後、旧湯ノ沢地区をしばらくふらふらした。それから、「大滝乃湯」という温泉施設にも行ってみる。これはTwitterでukentaさんに教えてもらった。入場料は900円。鍵のかかるロッカーが有料で100円だった。午前中であったので、あまり人がおらず、ゆっくり浸かることができた。露天風呂があったのでそこにもいく。明るい屋外を裸で歩く経験はあまりない。熊がここに出たらどう闘うか、と考えつつ露天風呂に浸かった。多分大怪我をするか死ぬだろうな、と思った。さいわい熊は出なかった。

 草津には、入場料のかかる温泉施設と、無料の公共の浴場がある。1日目の夜に行った「白旗の湯」は無料の公共の浴場。脱衣所と湯舟しかなく、頭や身体をあらったりすることはできない。本当に純粋にお湯を楽しむだけの場所だ。温泉地らしい温泉、といえばそうかもしれない。入り方としては、宿の内湯とか、有料施設とかで、一度身体をきれいにして、あとは無料の公共の浴場を回るのが楽しいのではないかと思った。湧き出している源泉によって、お湯の感じも異なり、面白い。今回は白旗の湯しか行けなかったが、ほかの温泉も行ってみたいと思った。

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 13:15のバスで草津温泉をあとにし、長野原草津口駅にむかった。草津から駅へのバスはとくに連絡をしておらず、40分近く待った。待合室には、中之条町長野原町の観光パンフレットがたくさんおいてある。八ッ場ダムのパンフレットが二種類あったので、それをもらう。14:21長野原草津口駅発の吾妻線に乗り、隣駅の川原湯温泉駅に向かう。川原湯によろうと思ったのは、八ッ場ダムを見ようと思ったからだ。

 14:30ごろ、川原湯温泉駅に着き、駅を降りたところでレンタサイクルをしていたので借りた。レンタサイクル事業は、夏場や紅葉のシーズンなどに社会実験として行われているイレギュラーなものであるとのことだった。普段は、駅から徒歩20分の「道の駅八ッ場ふるさと館」で借りることができる、とインターネットにはあった。

 自転車で八ッ場ダムをぐるりと回った。まずは八ッ場大橋。ダムには、茶色く濁った水が溜まっていた。ネットで見た「満水」という状態よりはだいぶ減っていた。放水して、試験湛水の本来の姿に戻そうとしているところなのだろう。

 橋のたもと、川原湯地区側に「なるほど!八ッ場資料館」という資料館があった。これがとてもよくできた資料館だった。八ッ場ダムの建設の経緯などがよく整理されてまとめられている。

 プレハブの広くはない資料館だが、壁の上のほうに、ダムになってなくなってしまった旧温泉街(温泉自体は高台に移転して営業している)の写真が飾ってあり、なんとなくその明るい何気ない温泉街はもうないんだ、と思った。ただ、それはあくまで写真コンテストの入賞作としての展示であって、ダムに沈む前に人びとのどんな暮らしがあったのかについて主題的な展示はほぼない。もちろんここは、国土交通省がやっているダムの資料館だ。だからダムの工法や意義について解説してあるのはいいのだが、それが壊さなければならなかったもの、人びとの暮らしの展示ももう少しあってもよいのではないか、と考えた。
 八ッ場大橋、八ッ場見放台(展望台)、道の駅八ッ場ふるさと館、不動大橋と、ダムをぐるりと一周した。どこもそれなりに観光客がいたのが驚きだった。このレンタサイクル事業もそうだが、観光振興とセットでダム開発が行われてきたのだということを何度も感じた。川原湯温泉の町の人たちの経済を維持する、ということにかなりお金をかけている。
 どこまでも続く茶色い湖を見ながら、なにかとなにかを引き換えにする、ということがこの土地でおこなわれたのだなということをひしと感じた。そこで引き換えられたものが本当に等価か等価以上のものであったのかは、誰にもわからない。というか、その評価の仕方さえわからないものかもしれない。ダムが本当に必要なのかということも、専門家のあいだで見解は分かれるだろう。ダムの機能的側面についてもそうだし、生活の質のようなものを考えても、八ッ場の谷筋で暮らしていた町の人びとが、高台移転で得たものと失ったものをどう測れば適正なのかはわからない。
 でももうすでに巨大なダムはできていて、後戻りはできない。人間が為し、作りあげたものを、人間はどう評価することができるんだろう。

 私が八ッ場ダムの問題を知ったのは、2005年頃で、大学で知り合ったほぼ唯一の友人であった遥ちゃんが教えてくれたのだった。彼女は環境問題に関心を持っていた。科学思想史の授業で知り合って、私も一緒に環境問題の勉強会や集会に参加していたのだが、彼女は私よりずっと真摯なひとで、まっすぐに活動すればするほど、何も動かない社会への憤りが増えていくようにみえた。何をしてもいい加減な私はいまも生きて、完全に観光気分で15年も経ってから八ッ場ダムを見に来ている。それで、問題がでかすぎるし複雑すぎて考えきれない、とか思っている。彼女は当時、どう思っていたんだろう。もう会うことは叶わないのだが、また彼女に会いたい、と思った。

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八ッ場ダムの茶色い湖面。(橋は不動大橋)

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ダム湖岸のすすき。

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 16:30に自転車を返し、16:44の吾妻線に乗った。電車の中ではずっと寝ていたような気がする。たまに起きて、図書館の本を検索して、草津の関連書籍何冊かに予約をかけた。論文もいくつかダウンロードしたりした。

 たった一泊二日の行き当たりばったりの旅だったが、ものすごくいろいろなことを考えた旅だった。頭のなかにいろんなものがスコン、スコンと入ってきた。その場所に行って分かることは、多い、と改めて思う。草津のことをまだ少ししか知らないので、またよく勉強して、再び訪ねたいと思う。

旅の記録(2019年11月/草津町)その1

 1泊2日で草津町に旅行に行った。書いておかないと忘れてしまうから、旅の記録を書いておく。

【1日目】
 高崎駅で8時53分発の吾妻線に乗る。遠足に行く中学校の1年生の5人+先生という一団と、ずっと一緒だった。いい雰囲気の5人組だった。

 吾妻線は、台風19号の影響で長野原草津口大前駅間は運休しているのだが、草津の入り口である長野原草津口駅までは運転している。長野原草津口で降りて、バスに乗り換える。吾妻線とバスは時刻表が連絡していて、あいだにトイレに行く時間もほぼなくてすぐにバスが走り出した。バスはICカードが使えた。11時頃、草津に着く。宿はとってあったが、どこを見て何をするかは何も決めていなかった。今回は草津に初めて来たので、とにかく草津を知ろうと思っていた。まずはどんなところか知ろうと、下調べのような気持ちで来たのだった。

 *
 草津バスターミナルで、たまたま、「重監房資料館」という看板を見る。ああ、草津にはハンセン病療養所があるんだ、と思い出す。「重監房資料館」はその療養所に併設されていた監房の非人道さを伝えるための資料館らしい。歩けない距離ではないし、今日の午後はここに行ってみよう、と思う。
 バスターミナルの3階には、「温泉図書館」があるらしい。ものすごく興味をひかれたが、到着した木曜日は休みだった。また来よう、と思う。

 **

 草津観光の中心地、湯畑まで歩く。硫黄の匂いが鼻につき、前日までこの旅行に来るために残業に残業を重ねほとんど寝ていなかったからか、気持ち悪さを覚える。

 お腹が空いていたので、湯畑の近くのそば屋で食べるが、失敗だった。このあたりでは、舞茸が名物なのか、どの店も舞茸天と書いていた。私も舞茸天のついたそばにしたが、私の入った店の舞茸天はひたすら油っぽかった。観光地の食事は難しい。*1

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湯畑。ここが草津観光の中心地で、迷ったらここに戻れば良いのだった。

 荷物を宿に置かせてもらい、重監房資料館まで歩く。3.5キロくらい。この時はまだ、草津ハンセン病の歴史に関する知識はゼロだった。
 途中で墓地があり、「コンウォール・リー女史の墓所」と書いてある場所があった。十字架のついた納骨堂があり、その前にベンチが並んでいる。ちょっと疲れたので、そこで休む。コンウォール・リーというひとのことは知らなかったが、説明書きにはハンセン病患者に尽くした「教母」と書いてある。キリスト教の伝道活動や奉仕活動をした人だろうか、という程度の認識で、お墓の前で休ませてもらった。キツツキ的な鳥がいた。キツツキ、初めて見るかも、と思う。風にのってトチノキの大きな葉が後から後から乾いた音を立てて落ちてくる。草津は紅葉の美しい季節になりかけていた。

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重監房資料館への道。

 小一時間歩き、東工大草津白根山観測所をすぎると、すぐとなりが栗生楽泉園の門だった。資料館へはもう少し先まで歩いて、曲がる。道で、きれいな鈴の音が聞こえる。なんの音だろう、と思う。

 重監房資料館に着くと、見学者はわたしひとりで、職員の方がビデオを見せてくれた。ハンセン病一般の説明と、隔離政策、それに対する国の謝罪、名誉回復の経緯、そして、「重監房」の説明のビデオだった。重監房というのは、全国で栗生楽泉園にだけあった施設で、全国から「反抗的」だったり「不良」とされた患者が送られ、懲罰として収容されていた独房である。

 粗末なコンクリート造りで、冷暖房もなく、外が見える窓もない。冬期には氷点下20℃近くなる草津で、防寒設備は何もなく、明かりとりの窓と、食事を入れるために部屋にあいた穴から雪が容赦なく降り込んだという。冬用の布団も支給されず、厳寒期には布団が凍りつき、凍死するものも少なくなかったそうだ。重監房が設置されていた1938年から1947年の9年間の間に、93人が収容された記録があり、23人が収監中ないし収監を解かれてから1年以内に亡くなるような、過酷な独房だった。
 重監房資料館には、遺構から再現された重監房の一部がある。それから、収容された人の名前と収監理由、その後が紹介されている。資料館には、栗生楽泉園やハンセン病についての解説展示もあったが、「重監房」という非人道的な施設の紹介に重きを置いた資料館であった。
 展示の見所は、重監房に関わった患者らの証言である。重監房に収容された患者の世話をするのは、外にいる別の患者だった。重監房についてのオフィシャルな書類はほぼ失われているので、重監房のことを知る手がかりになるのは、そうした元患者らの証言しかない。資料館はそうした証言を主たる資料として構成されている。

 その証言のなかに、「収容されているのが草津の人だったら周りのひとが出してくれって嘆願もするけれど、そうでないひとはどこの誰が入っているのかもわからず長期化する傾向があった」というようなものがあった。元から草津にいた人であれば顔を知っているから、出してくれ、という運動もできるが、どこから来た誰なのかも分からないひとにはそういう運動も起こりようがない。方言からわずかに、南の方の人だな、とわかるだけだった、という証言もあった。熊本(本妙寺事件のあとに送られた者が複数いた)など、日本各地から人知れず送られてきて、重監房で人知れず死んでいった人も多かっただろう。期間は、長い人で550日近く。粗末な4畳半ほどの狭い部屋で、食事も少量しかあたえられないなかで長期間収監された患者は歩けなくなったり他の病気にさらにかかったりもしたという。「特別病室」と名付けられてはいたものの、医務室が使われた形跡はなく、医療的行為はほとんど行わなかった。
 1947年に「特別病室」が人権問題として患者団体から訴えられ、国会でも問題になる。(国会議員の視察の様子が、「日本ニュース」の1947年の91号(11月か12月頃か?)に残っている。)そして、その後、重監房は使われなくなり、粗末なコンクリ作りの監房は自然に朽ちて、なくなった。
 
 そういうことが一気に勉強できる施設が「重監房資料館」だ。厚生労働省が設置した国立の資料館である。
 重監房の非人道性について「日本のアウシュビッツ」と形容されている証言者の方もいた。なぜ日本政府は、病人にこんな非人道的な措置を行うことができたのか、意味が分からないというのが見学したあとの正直な気持ちだった。資料が残っていないせいもあるのだろうが、重監房という殺人的ともいえる激烈な懲罰がなぜなされたのかは、よくわかっていないようだった。この意図のわからない暴力は私を困惑させる。ハンセン病という感染症にかかっただけの人である。療養所に入りたくないと反抗したり、薬物中毒だったとか理由は書いてあるが、そんなことで、過酷な独房に入れて殺すようなことがなぜできたのか? 誰が決定していたのか? なぜ当時も曲がりなりにも法治国家であったはずの日本は、それを黙認していたのか? 

 重監房が設置された1938年は、国民皆保険の礎となる法律「昭和13年4月1日法律第60号」が制定された年である。日本が福祉国家として歩き始めたその裏で、ハンセン病患者は隔離され、死へと追いやられていった。その時日本で何が起こっていたのかは、もっと勉強しなくてはならない、と思う。分からないことがたくさんありすぎるのだった。

 重監房資料館は、冬期は団体のみとなるが、春から秋にかけては個人でいつでも訪問することができる。証言ビデオのコーナーが見応えがあるので、証言ビデオをぜひ見てみてほしい。

sjpm.hansen-dis.jp


 
 資料館の外に出ると、穏やかな秋の日が続いている。栗生楽泉園の外周の散策路を、ぐるりと一周した。分かれ道のひとつひとつに、電子音の流れる装置がある。病気のため目が見えなくなってしまった人を誘導するための音響装置であることに、後から気づいた。最初の鈴の音もそうだったのかしら、と思う。
 楽泉園内の社会交流館も見学させてもらった。こちらは草津と栗生楽泉園じたいの歴史が展示されている。メアリ・ヘレナ・コンウォール・リーというひとは、英国人のキリスト者で、草津・湯ノ沢地区に集住していたハンセン病患者の生活環境をよくするための活動(バルナバ・ミッション)に私財を投じ、晩年を捧げた人物であると知った。
 古くから、草津の酸性の湯が皮膚の病に効くということでたくさんのハンセン病患者が集まり、草津の旅館はその湯治客で潤っていた。一方で、患者ではない客が離れていくことを防ぐために町は患者を湯ノ沢地区という当時の町外れに集住させた。そこで患者たちは自ら生計をたて、暮らすようになる。1907年に「癩予防に関する件」、1931年「らい予防法」と法律ができ、1929年からの各自治体の「無癩県運動」など、国の隔離政策が具現化していくにつれて、湯ノ沢地区の人びとはさらに2キロほど離れた栗生楽泉園への移住を余儀なくされた。それでもすでに湯ノ沢地区に家を建て、生活の基盤を作っていた人はそう簡単には移住することはできなかったが、栗生楽泉園の下地区に、自由療養区を設けることによって、徐々に移転が進められていく。湯ノ沢地区は、昭和16年ごろに解散することになる。湯ノ沢地区の解散の少し前に、コンウォール・リーは高齢のため草津を離任し、晩年を明石で過ごし1941年に日本で亡くなった。(この辺の史実については、展示をみて得た記憶によって書いているので、正確でない場合がある。これから勉強しようと思っている。)

 外周の散策コースの最後に、重監房の遺構にも立ち寄る。クマザサの茂るなかを歩いていくと、田の字型に句切られたコンクリートの基礎だけが残っている。なぜこんな場所があったのか。もっと勉強しなければならない、と思いつつ、草津の中心部の方へ、3.5キロ歩いて帰った。
 だいぶ街中に近づいてきたとき、途中の電柱に、「草津バルナバ教会」という看板を見つけた。これはコンウォール・リーの開いた教会の名前だ、と思い、道を入っていくと、教会のような建物があった。その脇に、「リーかあさま記念館」とある。これはコンウォール・リーの記念館か、と入りたくなるが、開館時間はもう終わっていた。明日来よう、と思って宿に帰った。
 昼12時に歩き始めてから、帰ってきたのは17時前だった。

 夜、宿の夕飯を食べる。そこまでおいしくはなかったが、量がものすごかった。
 その後、布団を敷きに来てくれた宿の人と話していたら、その方が川原湯温泉の方の出身だと言っていて、ああ川原湯温泉って八ッ場ダムの、と言ったら、川原湯温泉はあれは失敗したと思っているんだけど、といいつつ、八ッ場ダムが台風の日に一気に満水になりきっと下流の洪水を救っただろうという話をしていた。どんな風に失敗だと思っているのかは聞かなかった。

 夜9時頃、宿を出て「白旗の湯」へ行く。湯畑のほぼ目の前にある。脱衣所と、湯舟が二つ、水の出る水道があるだけの浴場だった。白く濁った湯舟に身を沈めると、全身が溶けるようななんともいえない心地よさがあった。酸性度がかなり高いらしく、肌に当たる湯がぬるりとした感じがする。同時に入っていた70代くらいのご婦人が、「あぁ、いいお湯ねえ」と言っていた。ああ、そう言えばいいのか、と思った。とてもいいお湯だった。草津で入った温泉のなかで、この夜の白旗の湯がいちばん気持ちがよかったと思う。何度もあがりながら、少し身体を冷まして、何度も入った。ちょっと温まりすぎたかも知れない。

 宿に帰ると22時くらい。明日の予定を考えつつ、寝た。寝たが、温まりすぎたためか身体が熱く、なかなか眠りにつけなかった。部屋のポットから何度も白湯を飲む。多分寝たのは3時ぐらいだったと思う。

(その2に続く)
 

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*1:あとで、草津のエキスパート@ukentaさんに「どんぐり」という洋食レストランがおいしいよ、と伺った。次回は「どんぐり」にしようと思う。

変わる景色と変わらないひと――映画:賈樟柯「帰れない二人」(2018)

ジャ・ジャンクー賈樟柯 Jia ZhangKe)「帰れない二人」(原題 江湖儿女 /英題 Ash is Purest White)、2018.

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深くなってきた秋の日、映画館で見る。
予告編を見たときに気になっていたもの。ジャ・ジャンクーは以前、「罪の手ざわり」をBunkamuraル・シネマで見たことがあった。なぜかあまり印象に残っていないのだが、冒頭のトマトのシーンとか、中国の田舎の映像がとにかく美しかった記憶があった。


今回の「帰れない二人」も、中国の壮大な風景に何度も目を奪われた。ある意味で、風景を見る映画なのかもしれない。
というのは、あまり複雑なストーリーはないからだ。予告編を見ればだいたいそれがすべてだ。大枠だけ書く(何も知らない状態で映画を見たい人は、ここでこの記事を読むのをやめ、映画を見た後に読んでほしいと断っておく)。2001年、山西省の大同市で暮らしていた「渡世人」のビン(リャオ・ファン)とチャオ(チャオ・タオ)のカップル。チャオは抗争に巻き込まれたビンを助けるために、ビンのピストルを撃ち、服役する。チャオはピストルの持ち主がビンだと口を割らず、自分のだと言い張ったため、罪が重くなり、刑期はビンより長かった。2006年、刑期を勤め上げたチャオは、ビンがいるという三峡ダムのほとりの街、奉節に赴く。そこで紆余曲折ありながらも5年ぶりにビンと出逢い、すでに新しい生活を始めていたビンと別れる。最後は、2017年。ふるさとの山西省、大同にも新幹線が通り、チャオは独身のまま元いた雀荘の女主人となっている。そこに脳梗塞で半身麻痺になったビンが帰ってくる。チャオが探してきた病院に通い、リハビリを行い、療養ののち、歩けるようになったビンは、「出て行くよ」というボイスメッセージをチャオに残し、出て行く。

まあ物語としては、それだけの映画なのであった。映画は、2001年から2017年という、17年ばかりの歳月を、中国の経済的な成長の風景を背景にして、描いていく。変化を描くために、少し説明的な描写もおりおりに挟まっている。炭鉱の閉鎖にともなう移住とか、貯水されるまえの三峡ダム(いつどうやって撮影したのか分からないけど)から移住させられる人びととか。2017年の場面では、医者と、ぼろぼろの田舎の診察室で、QRコードを介してチャットのアカウントを交換し合う。チャオが唯一笑う穏やかな場面も、ビンとのチャットの場面で現れる。ビンと仲間のケンカが起これば、そこにいる人はカメラで動画を撮る。2001年にはなかったテクノロジーが、二人を、そして中国の人びとをとりまいている。予告編でも強調されるように、本作は記録映画の側面ももつ。

テクノロジーや風景は変わっていく一方で、人間そのものの変わらなさにうんざりする。
ビンとチャオが邂逅する場面が、2006年、2017年の2回あるのだけど、いずれにおいても、ビンはチャオの目をみない。いつも、チャオとは違う方を向いている。ビンの語っていることも、チャオのことを思いやるセリフはほとんどない。2006年の場面では、刑期を被ってくれてありがとう、とか、ごめんな、とか、ひとことありそうなものだが、一切ない。感情を吐露するセリフが少しあるが、それも、出所後の自分がどれだけ惨めだったかを語るというだけだ。チャオが貫いた思いをみている私たちの目には、ビンの独白が白々しく映る。おそらくチャオもそうだっただろう。

その2006年の奉節の木賃宿のシーンは、本作のひとつのクライマックスである。火を跨いで厄を落とそう、というとき、ビンはビンなりに、必死にチャオの人生を良いものにしようとしているのだが、そういうことじゃないやろ、とみている私は思う。そういうことじゃない、ときっとチャオも思っている。だけど、同時に、こういうことしかできない人なんだ、とも気がついている。チャオはビンの手をとり、彼を受け入れ、別れを受け入れる。ビンの心の純真さ、チャオの心の優しさ。それが二人の俳優の演技から、否応なく伝わってくる。

チャオとビンの関係は、「愛」と呼ぶべきなのかはよくわからないけど、お互いを必要としている関係であることはたしかだったのだと思う。性愛描写は一切ないのだが、冒頭でわりと長く描かれる大同での2001年の二人の日々の言葉少なな描写は、それを伝えていたのだな、と後から気づく。恋人というよりは、きょうだいのような、魂の双子のような関係のふたりである。

お互いにお互いを必要としているのに、しかしビンはいつもチャオの元を去って行く。しかも、何も言わずに。なんでそうなっちゃうんだろう、と考える。

おそらくそれは、チャオのほうがビンをいつも助けてしまうからか、と思う。チャオは度胸があって機転が利いて、ここぞというときにハッとするような豪胆な策略で危機を切り抜ける(そのチャオの豪胆さが本作のみどころの一つだ)。そして、自分の命を自分で救うばかりか、ビンのことを助けてしまう。ビンはたぶん、助けてもらうことに耐えられない。なんでだろう? プライド?と最初思ったけれど、そもそもプライドってなんだろう、と思うと、心がきれいすぎることか、と思う。相手に何かをしてもらうと、それを自分は返さなければならないと思うが、相手がしてくれたものが大きすぎるとき、自分の小ささでは返せないことが実感され、どうにも動けなくなる。「刑期を被らせてごめんな」と言えないのは、それを言ったぐらいでは何も返せないとビンが思っているからだろう。相手にかけた苦労に対して、言葉が真正な報いにはならないと思っている。そして、何も言えない、何も出来ない。相手が大切なひとであればあるほど、返すものの大きさの前に、何も返せなる。ビンは、チャオに返すものがありすぎる状態に耐えられず、いつも消えてしまう。

てことは、あの、ビンを助けてピストルを撃った最初の場面で、この二人がどこにもいけないことは決まってしまっている。命を救うような純粋な援助を得てしまった場合、それをなにかで返すことは、もうできない。刑期も被ってもらった。何も言わず介護してくれた。どんどんビンにはチャオに返せない負い目がたまってゆく。そしていつも、かれは消えていくことしかできないのだ。なんなだろう、この、すごいわかるけど、すごいやるせない感じは。救いがどこにもない。

ひとはたぶん、多くの場合、100%の報いにはならなくても言葉で伝えたり贈りものをしたりすることで、ごまかしながら、関係を続けていく。関係の維持はある意味では不純でダーティだ。ただ、関係がごまかしを含めないような純粋なものになってしまうときがあるのだろう。そのときは・・・・・・どっちが消えるか死ぬしかないのかもしれないな、と思う。救いがない、と思ったけれど、最終的にはそれが、もっとも純粋な関係のありかたなのだろうか。純粋な魂であればあるほど、他人と付き合えなくなる。そんなものなのかもしれない。

けど私はそんなのやだよ、チャオには幸せでいてほしかったよ。ビンだって一緒にいることでチャオを幸せにしてるんだよ、存在するだけで返してるんだよ、なんでそれがわからないんだよと、ひとりかなしくなりながら映画館をでて、寒くなってきた街を歩いて帰った。

変わる景色と変わらないひと。そんな、ひとびとを背景に描かれる中国の雄大な景色がとにかく美しい。叙情詩のような映画であった。

 

「遠さ」の効用――映画「シンク・オア・スイム イチかバチかの俺たちの夢」

Le Grand Bain(2018)→「シンク・オア・スイム イチかバチかの俺たちの夢」

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 なんとなく休みの日の午後に日本語と違う言葉が話されているのが聞きたくなって、近くの映画館でかかっていたこの映画を見にゆく。監督はジル・ルルーシュ(Gilles Lellouche)。2018年、フランス。
 舞台はフランスの地方都市。うつ病になり2年働いていない中年男ベルトラン(Mathieu Amalric)は、市民プールでシンクロナイズドスイミングの男子チームのメンバー募集の貼り紙に惹きつけられる。チームに加入してみると、チームはいろいろな背景のある中年男が集まっているチームだった。
 人生はいろいろある、と言ってしまえばそれまでなのだが、「いろいろ」という言葉の含蓄は深い。ベルトランは鬱で働けなくなって2年が過ぎ、嫌いな義兄のコネで雇ってもらった家具販売店では、すでにベルトランという販売員がいるため「ジャン・リュック」という名前で働くことになる。チームメイトのローラン(Guillaume Canet)は責任ある仕事に就き、美しい家も持っているが、吃音の息子を愛しつつも苛立ちを隠せない。イライラとし続ける夫を美しい家に残して、妻は息子を連れて消えた。老人ホームに預けた母は認知症で、会えば「醜い子、堕ろせばよかった」などのひどい罵倒を息子に浴びせるのが常だ。コーチのデルフィーヌ(Virginie Efira)は、元は国際試合にも出るトップレベルのシンクロ選手だったが、ペアを組む相手のケガでチーム解消となり、競技人生が突然おわる。失意のなかアルコール依存症となったらしいが愛が苦境から立ち直らせてくれた、と思ったがそれは自分の勘違いで、相手からはストーカー扱いされる。
 いや、いろいろある。で、別に、シンクロナイズドスイミングをしたからってそれらの問題が乗り越えられるわけではない。だけど、彼らみんなが、なぜか毎週の練習のためにチームに通ってくる。なんかゆるく楽しい雰囲気があり、仲間のいる楽しさが人生を少しだけ動かしていく。そんな風景を描いたコメディ映画である。


 印象に残ったのは「めんどくさいやつ」という言葉だ。しばしば苛立ち、拗ねてしまうローランは、仲間がゆるく練習していたら「こんなことでよいと思っているのか!」と怒って外に出て行ってしまうようなことを複数回繰り返す。周囲からは「めんどくさいやつ」といつも言われるのだが、でも別に嫌われているわけではない。「おーい、めんどくさいやつ!飲みに行くぞ」と誘われて、また合流する。ちょっと付き合うのにはコツがいって、一筋縄ではいかないやつだが、それでも付き合いが切れない関係がチームにはある。ただ、その一方でローランの結婚生活は破綻してしまう。破綻の原因は説明されないが、「面倒くさいから奥さんにも逃げられるんだ」と仲間からからかわれる。

 「めんどくさいやつ」と字幕が当てられた言葉の、原語のフランス語がなんだったのかは聞きとれなかった。だけれども、なにか言いようのない温かさが耳に残った。

 妻には許容できないローランのめんどくささが、チームメイトだとまあ許容できるとするならば、それはなぜだろう。距離か、遠さか、とふと思う。相手がどんな人でも愛するとか、どんな状態でもそばにいるとか、真面目に考えるとどうしたらそんなことができるんだろう、って思うけど、めんどくさいやつ!とかなんとか言いながら、距離をとりつつやっていけばなんとかなるのかもしれない。
 そう思って思い返せば、映画に出てくる登場人物は、うつ病とか、倒産癖のある中小企業社長とか、中年の夢みるバンドマンとか、アルコール依存のストーカー気質女子とか、近くに居すぎると癖のあるひとびとばかりだ。しかし、ちょっと離れたところから見ると彼らのめんどくささは滑稽で、愛すべき仲間となる、ということを映画は描いていた。その場合近いとか遠いとかってどうやって決まっているんだろう、と考えると、相手とどれくらい関わるかということで、自分の存在がその人に与っているかどうかで測れるのではないかと思う。その人が自分の生活や人格を支えるほどの存在であれば「近い」。その人が潰れると自分も潰れる可能性があったりするから、めんどくさかったり癖のある状態が我慢できない。他方で、その人がどうなっても自分は変わらないぐらいの関係だと「遠い」。ぶっちゃけその人が潰れても構わないから、めんどくささをそのままで愛せる。そして、その遠くからの愛が、その人を支えるような、なんかそんな気がした。


 なんとなく今まで私は、遠い関係は不真面目さを含むような感じがして、人間関係の中で価値の低いものだと思っていた。だけれども、アマチュアスポーツチームのチームメイトのような「遠さ」は、遠いからこそその人を見捨てないで済む面もあるのかもしれない。関係が遠いからこそ、生まれるドラマもあるのではないか。
 裏を返せば、って返してないかも知れないけど、近い関係においても、どこかに遠さを用意しておくことで、長続きするということもあるのかな、と考えたりした。そのままを愛する、ってめちゃくちゃ難しいんだけど、なぜかそれがうまくいっているのがベルトランと妻の関係だったように思う。それはある意味では、妻が夫から距離をとっていたからにも見える。うつ病で夫が働かなくても、妻は妻で仕事をしており、そんなに同情していないのだ。そのために、夫婦には危機は訪れない。

 

 映画はひとつの分かりやすいクライマックスを迎えたあと、もうひとつ静かなクライマックスを迎える。内面で思っていることはみんなバラバラのはずなのだけれど、不思議な一体感がある場面である。一緒にいることでどこか救われるような、遠い関係が作りだした希望が映っていたと思う。

母娘の愛とかをめぐって/鈴木涼美(2017)『愛と子宮に花束を』

本の感想。

愛と子宮に花束を ~夜のオネエサンの母娘論~

愛と子宮に花束を ~夜のオネエサンの母娘論~

 

  『身体を売ったらサヨウナラ--夜のオネエサンの愛と幸福論』(以下、『幸福論』)に続いて、2017年に出た母娘論を買って読んだ。幻冬舎Webサイトの連載をまとめたもの。Web連載の時も読んでいた気がするが、当時はそんなにピンとこなかった。のだが、最近私はがぜん鈴木涼美さんに関心を持ち始めた。そして本を買って読んでみるとめちゃくちゃ面白いのである。彼女が選んでいるクラシカルな(というのが適切か分からないけれど)文体もよくて、縦書きの体裁によく馴染む。

 

 何でこの本を読もうと思ったかというというと、『幸福論』のほうを読んで、随所に出てくる母親の描写が気になったからだった。どの親子関係もそうかも知れないが、この作家の親子関係もまた独特で、この作家はこの母親のことをもっと主題的に書くことになるのかな、と思っていた。そして調べたら次の本が『母娘論』だったので、なんだもう書いてたんじゃん、と思って取り寄せたのだった。
 というか、そもそも私が鈴木涼美さんに興味を持ったのは、Twitterで彼女の次のような発言を見たことがきっかけだった。ネトフリのドラマ「全裸監督」が話題になってた時だと思う。過去のAV作品の販売差し止め的な措置をしてはどうか、というアドバイスに対して彼女は、しようとは思わない、ときっぱりと書いていた。元AV女優という過去を隠しているわけでもないし、という理由に混ざって、「母親がもう亡くなっているので」という一文が入っていた。母親が亡くなっているからAVを流通させたままにしておく、とはどういうことなんだろうと気になった。お母様が亡くなったのが2016年で(著名な方なのでwikipediaがあるのだ)、その頃にはもう週刊誌記事も出ていたはずだから、お母様もAVに出たことは少なくとも知っていたはずだ。もうどちらにしろバレているのだからどっちでもいい、という考え方もできるだろう。だけどTwitterの書きぶりからは、お母様が生きていたらAV差し止めも考えたかも知れない、というニュアンスを感じた。それはどういうことなんだろう、この人はどういう親子関係を生きているんだろう、と興味をひかれたのだった。

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 本書は、鈴木氏自身と母の思い出や、友人知人の夜職の女の子の母娘関係についての観察や、考察などが重なりながらすすむ。途中で2003年頃の淵野辺の一流私立大学に通う女の子というのが出てきて、私も2003年頃に淵野辺の私立大学に通っていたので、ああ、同じ神奈川で、こんな大学生活を送っている人たちもいたのだな、と会ったこともないけどなんだかなつかしくなりながら読んだ。同世代の作家というのは面白いな、と思う。


 短編エッセイの集積なので一つに収斂する結論のようなものはないのだが、問いたずねられているテーマは、母親と娘の間にある、愛みたいな感情だろうか。夜職であろうが昼職であろうが、母は娘を愛し、娘は母を思い続ける。
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 本書には、鈴木氏と母親とのやりとりがたくさん出てくるのだが(特に第I部と第III部)、そのひとつひとつが興味深かった。冒頭に出てくる、人生で二度、母から「強烈な嫌悪と憎しみの眼差し」(p.8)を浴びたというエピソードも印象的だ。幼稚園の頃、人見知りをして初対面の人にきちんと挨拶やお礼を言わなかったら、キレた母に地下鉄の駅で手を離され、はぐれそうになりながらも必死に電車に乗って母を見失わないようにした話。そして、大学生の頃、お父さんの愛車を事故で半壊させて、お父さんは嘆き悲しみ、それを見たお母様がものすごく怒り、それを機に実家を飛び出した話(そして友人の淵野辺のアパートに行く)。その時お母様は「私の愛してるあなたのパパを傷つけるようなことをするあんたのことを私は許さない」(p.70)と言ったそうだ。詳細に書かれたわけではない断片的なエピソードだが、お母様は、おそらく感情の起伏の激しい人だったのだろう、と思う。翻訳者で研究者でもあったからか言葉の反射神経のようなものが高く、かなり何でも言葉で語ってしまうタイプのお母様だったようだ。
 鈴木氏は、その感情の起伏の激しさを冷徹に見つめて分析しつつ、しなやかに対応している。小さい頃の鈴木氏が、地下鉄のなかで必死に母親を探し、はぐれずに帰宅したこともそのひとつだったと言えるだろう。彼女はまだじゅうぶん幼かったはずなのに、必死になって自分の手を離した母についていくことができた。そして、大きくなってからも、多少口うるさいことを言ったとしても、目の前の生身の母親をきっと無碍にはしなかった。ある意味で、小さい頃から甘えていない子供だったのだろうと思う。そして、母と一緒に過ごすことがそれなりに楽しいし誇らしいと思いながら育ってきた感じが、本書からは伝わってくる。
 ちょっと話がずれるけど、鈴木氏は表紙のお写真を見てもすごく可愛いし、SNS上の最近のお写真を見てもその明るい表情を見ていれば心根の優しい善いひとだということは一目瞭然に分かるわけで、その善さをお母様も愛していたに違いないし、その愛に応えようと努力してきたひとなんだなということが推測できる。と、ポートレートだけでこんなに雄弁に語るひともいないなと思うんだけど、とにかく鈴木氏は優しく、淡々と、母と世界を切りとり続ける。

 

 本書の執筆中に、鈴木氏の母はがんによって亡くなる。その過程が第III部に断片的に書いてあるのだが、印象に残ったのは、母と娘の次のような会話である。これは、氏のAV出演などの過去がすべて分かった後の話である。

 母は限られた時間を意識してか、それまでよりも直接的な表現でほかにもいくつかのことを話した。「あなたのことが許せないのは、あなたが私が愛して愛して愛してやまない娘の身体や心を傷つけることを平気でするから。どうしてあなたは私の娘をいじめるの?」と言った。「あなたは私の娘の幸福への無限の可能性をすごく狭めてしまったの」とも。
 そんなことを話しながら母は明日はテレビの仕事だよなんていう私の衣裳を一緒に考えたり、病室で化粧する私にあれこれ注文をつけたりして、「いい娘を一人育てて、幸せだった」なんていうことも言っていた。(p.206)


 前半の言葉は、帯にも引用されている。編集者も、ここが印象に残ったのだろう。
 たしかにこれは強烈で、そして不思議な言葉だ。目の前にいるのは自分が愛している娘そのひとなのに、その娘に「どうしてあなたは私の娘をいじめるの?」と問いかける。一人の娘が、あたかも分裂しているかのように。きつい言葉に見えるけど、けして拒絶ではないことも分かる。愛して愛して愛しているのは、その言葉が向かう当の娘なのだから。多分作家もそう受け止めている。
 母が最大限の愛を注いで育てた娘は、家を飛び出し、夜職に入り、AVにも出演し、良い大学、大学院を出て新聞記者となり作家となった。それはすべて愛している一人の娘に起こったことなのだが、それが母にとっては、たぶん、すっきりと100%腑に落ちることではなかったのだろう、と思う。どうしても、愛する娘のこうなるはずだった姿から、逸脱した姿をみてしまう。そうじゃないはずなのに、と思ってしまう。それでもやはり、娘を愛しているのだけれど。
 愛の矛盾、と私は思う。
 私が愛する「誰か」は、私から見て外にいて、客体だ。だけど、同時に、愛する誰かは主体でもあって、ただおとなしく愛されているわけではない。主体として動き、初対面の人にきちんとご挨拶しなかったり、パパの車を壊したり、夜のオネエサンになったりする。「私」の理想から逸脱することをやり続ける。でもそれは本当は逸脱でもなんでもなくて、真っ当に、彼女が生きた結果なのだった。「私」が育てた聡明な娘が歩み、引き受けていく道なのだった。そして彼女は今も生きて、まっすぐに顔をあげて世界を見つめている。
 自分が愛する理想の娘と現実の娘が違ったとき、一つの語り方として、鈴木さんの母親は娘を分裂させるような語り方を選んだ。それは強烈な倒錯に見えるが、じつはたんなるレトリックにすぎない。母親にとって娘のある面は受け入れがたかったが、母親もまた、目の前にいる娘を無碍にすることはできなかった。自分の理解の範疇を超える娘を、愛さないではいられなかった。そんな母娘の関係が、作家の抑制的な文章から立ち上がってくる。

 愛するということは、それがもっとも正しいかたちで結実するなら、愛するひとの人生の移りゆきのすべてを、愛おしむことであるだろう。たぶん鈴木氏のお母様もそうなさっていた。だけれども、どうしても、自分が愛せると考えている範囲から抜け出してしまう娘に苛立ってもいた。もちろん何が正しい愛で、何が間違った愛で、と断罪するつもりなんて毛頭ないしそんなことそもそも無意味だ。そして別に間違った愛でも構わないのだ。間違った愛し方しかできなかったとしても、間違った愛し方を相手は受け入れることができるから。地下鉄で自分の手を離した母の背を一生懸命目で追った、小さな女の子がそうしたように。母親も娘も、完璧な愛なんてなしえない。言葉は巧みだけど、おそらくその巧みさのゆえに、愛をうまくコントロールできない母と、それを受け入れる娘。二人はそうやって関係を作ってきたのだろう。
 生きた人間を愛する、ということは、矛盾に満ちた行為だ。私の愛するひとは、一瞬一瞬変わっていく。そのとき私も変わっている。だから愛も本当は、一瞬一瞬姿を変えているのだけど、それに言葉が追いつかない。言葉にならなくても、母娘の関係はしなやかに動き続けている。だれもそれを捉まえられないかも知れないけれど、たしかに愛はありつづける。なんかそんなことを考えた読書だった。
 すごく良い本を読んだな、と思い本を閉じる。
 ***
 最後に、この本のおすすめポイントを挙げておくと、夜職やホストクラブなどに不案内な読者にも仕組みがわかるような詳細な注が充実しており、なるほどそういうふうに夜の世界は動いているのね、と分かったりする。すごい楽しいし、勉強になるし、2000年代初頭の風俗が記録されているので後年には資料的価値がとても高くなるだろう(それは前作の『幸福論』もそう)。その意味では、一家に一冊おいて家族みんなで読むべき名著である。

 ただ、夜の世界の勉強にはなるけれど、けっして、たんに知らない世界の面白いエスノグラフィで終わるのではない、というところもミソ。母娘関係のひとつの普遍を書きあらわしえていると思う。その意味でも、お嬢さんのいる家には一冊あるべき本である。前著『幸福論』と合わせて読むとさらに楽しい。

 

お盆の日々

 ラジオは高校野球を延々と流している。これは、放送局の人の夏休み用のコンテンツなのだな、とわかってくる。おそらく、毎日のテレビやラジオの番組のコンテンツを構想して取材して台本を作って収録して編集して・・・・・・という作業を行うよりも、生中継で野球を流す方が、関わるスタッフは少なくて済むのだろう(番組制作過程の詳しいことはわからないけど)。
 高温が続く日本で、熱中症は死に至ることもある重大な健康問題だということが人びとに知られていくにつれて、高校野球をこの時期に行うことへの批判も徐々に高まっている。私も、真夏のもっとも暑い時間に、屋外で未成年をスポーツで競わせる慣習は見直すべきだと考えている。しかし、高校野球は上述の放送局の「夏休み」コンテンツとなっていることをはじめとして、すでに日本社会の仕組みに深く根を下ろしてしまっていて、高校野球が動くと、現行のいくつものシステムを動かさざるを得ない。そうした大きな改革は、大きな力と意志を持った改革者が出てこないことには、きっと無理なのだろうなあ、と思う。あるいは、世論の高まりを待つか。しばらくはこのままいくのだろう。死者が出ないことを祈るくらいしか、私にはできない。
 *
 昼は暑いので、夜暗くなってから運動不足解消のためにウォーキングをする。
 13日の晩、駅前の道を歩いていたとき、猫が車にひかれる瞬間をみた。自動車が猫に気づいてクラクションを鳴らし、猫はビクッと顔を上げたが、次の瞬間には車が猫を通り過ぎた。ひかれた瞬間、風船が割れるような爆発音がした。灰色の、長毛の猫だった。車は止まらずに走り去った。猫はまだ生きていたが、たぶん足を骨折していた。必死に近くの植え込みに転がり込んで、見えなくなった。
 私はひかれる瞬間を見たとき、短い叫び声を上げ、つい目を覆ってしまった。猫の死を見たくない、と思った。しかし、猫は生きていた。生きていたが、何かをもう諦めたような目をしていた。痛みもあるだろうに、身体を回転させるように必死に動いて植え込みのなかへ入っていった。動物病院に連れて行くべき?と思ったが、もう時間は23時近くて、猫は植え込みに入っていってしまい、どうしていいのか分からなかった。植え込みからはしばらくガサゴソと音がして、その後静かになった。私は猫の入った植え込みを見ていた。なにもできない、と思い、私はその場を去った。

 歩きながら、たぶんその晩死ぬ猫のことを考えた。猫はこうして死んでいくのか、と思った。祖父母の家の、急に晩年いなくなった猫も、こうしてふらりと出かけて交通事故に遭ったりしたのかもしれない。灰色の長毛の猫で、ぼんやりした身のこなしであったから、飼い猫だったのかもしれない。

 家に帰って、動物と人間の交通事故を目撃したとき、どうすべきだったか調べていたら、JAFのサイトに、「野生動物と遭遇、衝突したら」というページがあった。

野生動物と衝突してしまったときは、事故の発生を警察に連絡します。(中略)任意保険を使うには事故証明が必要となるため、警察には必ず通報しましょう。
次に、衝突した動物が生きている場合は、衛生面や安全面から素手で動物に触らないよう注意してタオルやダンボール等で保護し、動物病院や保護施設に運びます。動物が暴れたりなど保護が難しい場合は、動物病院や保護施設に連絡して指示に従ってください。基本的に治療費はドライバーの負担になります(野生動物の無償治療を行っている施設や病院もあります)。

野生動物と遭遇、衝突したら|トラブル|JAFクルマ何でも質問箱

 本来ならば、動物をひいた車の運転者がこれらの手続きをすることが望ましいのだろうが、ひき逃げを目撃した場合は、どうしたらよかったのだろう。たぶん正解を示すマニュアルはなさそうだ。二次災害をなくすために、死骸を道の端に寄せて、幹線道路であれば国土交通省の道路緊急ダイヤルに電話をすべきだったかもしれないが、猫はまだ死んではいなかった。

 猫はその時生きていたから、動物病院に連れて行くべきだったのだろうか。たぶん、そうだった、と思う。現実的には、茂みのなかから猫を引き出して保護し、隣町まで夜間にタクシー代を負担して連れて行き、治療費を出すことができたかどうかはわからないが。
 猫は、その日に死ぬつもりはなかっただろう。少なくとも私は、その日に死ぬつもりがなかった猫のために、できるだけのことをしてやるべきだった、と思った。
 

とりとめのない7月の記憶

 7月某日。祖母と祖父を埋葬する。
 埋葬といっても石の中に骨壺を入れるだけで、「埋める」感はなかった。新しく作られた墓石をどかすと、なかに空洞があって、空洞のなかに骨壺を並べる。お墓のなかってこんな風になっているんだ、と知る。
 墓は駅前にあり、場所は覚えたが、その駅は千葉駅からさらに電車で1時間30分も行くような千葉の端っこで、今後なかなか行くことはできないかもしれない。そもそも、墓に参っても石と骨の灰しかないわけで、縁のある親戚がいるわけでもなく、墓に行くモチベーションがない。けれども、祖父母には会いたいような気がする。もう会えないのは分かっているけれど、何かとりすがるためのかたちがほしいと考えると、それは墓なのかもしれない。しかし。墓に参るという形式的で型どおりの振る舞いに、気持ちをうまく乗せることができないような気もする。いままで死者とそんなに付き合ってこなかったからかな、と思う。死者との関わり方が、私はまだよく分かっていないのだ。

 *
 その後、慌ただしく前期の最終授業などが続いた。いろいろテストを作り、実施し、採点して成績をつけた。そして慌ただしい日々は、一応の終わりを迎えた。
 このダイアリーも更新の間隔が空いてしまったけれど、春から新しい街に住んで、新しい仕事を始めた。大変だったような気もするが、20代のころ新卒で会社に入ったときのように、心が追いつめられるような大変さはなかった。歳をとって大人になって心のキャパシティが拡がっていたというのもあるかもしれないし、なによりも、同じ職階に同時期に入った仲間が複数いたからというのが大きいような気がする。新しい組織に入ったときに誰もが抱くようなちょっとした疑問は、同僚と話し合って解決できたし、愚痴も言い合えた。なにより、みな責任感のあるコミュニカティヴなひとたちだったので、一緒に働いてとても快適だった。毎日毎日とても忙しかったけれど、人間関係で困ったりすることは何もなく、楽しく仕事を続けることができた。
 なぜこんなに一緒にいてストレスのない、気持ちのいいひとたちが同時期に採用されたのだろうと毎日思っていた。その秘密は未だ分からない。採用者にマッチングの目利きがいたのだろうか? そうかもしれないが、30分ぐらいの面接でその人はわかっても、メンバーの相性まではわからないだろうから、たぶん偶然なのだろう。みんな、なぜ自分が採用されたのかわかっていない。なぜか採用され、集まって、仕事を始めたら上手くいった。これはとても幸運なことだったのだろう、と思っている。
 **
 学期の最後の日、同僚で集まって私の家で打ち上げ会をした。よく考えれば、私は自分の家に人を招くことをしたことがなく、いろいろと緊張したし失敗もしたが、心やさしいみなさんなので楽しく過ごせた。少なくとも私は楽しかった。
 前菜に砂肝の酢漬けを作ったのだが、これは思い出してみれば祖母が私に教えてくれた料理だった。大学1年生のころ、祖母の家で食べた砂肝がおいしく、どうやるの?と聞いたら教えてくれたのだった。祖母から教わった料理なんてそのくらいだ。砂肝を茹でて酢醤油に漬けるだけという料理ともいえない料理だが、みなさんおいしく食べてくれた。
 何となく無意識のうちに、私は祖母をここに呼びたかったのかもしれない、とあとから思った。やさしい同僚に囲まれて、私が幸せに生きている場所に、祖母も招きたかった。祖母が亡くなってまもなく一年になる。それよりも以前、祖母と一緒に住まなくなったときに遡ると、祖母の元を離れて、もう25年ぐらいだ。考えてみれば祖母と一緒に過ごした時間は、人生のなかでほんのわずかなものだった。これからも相対的にどんどんわずかになっていくだろう。だけど、なぜだか、祖母の存在感は私のなかでだんだん大きくなっていくような気が最近している。私がいまここで働けているのは、祖母が私を見ていてくれた時代があったからだ、という、そんな気がするのだ。
 ***
 その週末、新しく住み始めた街でお祭りがあった。1ヶ月ほど前から、いろんなところでお囃子の練習が聞こえていた。町内の子供が練習をして、町内で出す山車に乗るらしい。お祭りの本番、40℃ちかい気温のなかで、子供がかけ声をかけながら、お囃子の太鼓を真剣な顔で叩いている。子供の真剣な顔と声は、なぜか胸に迫ってくるものがある。
 能で子方が出てきたとき、その場の空気をすべて持っていってしまうようなときがあるけれど、お祭りの子供の声も、それに近い、と思う。子供のけなげさのようなものが世界の平衡を少しずらし、祭りを日常の文脈とは違った世界に接続してしまうような感じだ。子供だから純粋だとか清らかだとかいうつもりはないのだが、たぶん子供を見ると、自分の子供のころの視野も心も狭量だったころを思い出してしまって、あんなに何も分からないのに、この世界で生きていくのは大変だろうと思ってしまうのだ。もちろん子供は子供なりの仕方で、この世界を認識し、彼らなりに理解して生きているのは分かっているのだが、その子供なりの認識で、精一杯生きていることに、大人は勝手に胸を打たれてしまう。そのために動員される子供にはご苦労なことだが、子供はそんな大人の思惑を外れてただひたすらにお囃子をならし続ける。
 子供は一気に大人にはなれず、誰もがひとときの子供時代を生きるしかない。そんな子供のころを、私の場合は祖母が、私が安全に生きることができるように見守っていてくれたのだな、と思う。子供時代のろくでもない私でさえも支えてもらったという経験が、いまの私の精神的な土台になっているのかな、と思う。あんな馬鹿な子供を愛してくれた人がいたのだから、まあ、あの頃よりは少し視野も広く周囲への配慮もできる大人になっているのだし、だいたいのことはなんとかなるさ、と思える。今も碌でもない大人やけどな。

 私は大人になったし、祖母は死んだ。もうこの世にはいないけれども、祖母と過ごした日々が、私の魂を今日も支えてしまう。子供の頃は短いようで長い。そんなことを考えていた。