「遠さ」の効用――映画「シンク・オア・スイム イチかバチかの俺たちの夢」

Le Grand Bain(2018)→「シンク・オア・スイム イチかバチかの俺たちの夢」
https://www.imdb.com/title/tt7476116/

 なんとなく休みの日の午後に日本語と違う言葉が話されているのが聞きたくなって、近くの映画館でかかっていたこの映画を見にゆく。監督はジル・ルルーシュ(Gilles Lellouche)。2018年、フランス。
 舞台はフランスの地方都市。うつ病になり2年働いていない中年男ベルトラン(Mathieu Amalric)は、市民プールでシンクロナイズドスイミングの男子チームのメンバー募集の貼り紙に惹きつけられる。チームに加入してみると、チームはいろいろな背景のある中年男が集まっているチームだった。
 人生はいろいろある、と言ってしまえばそれまでなのだが、「いろいろ」という言葉の含蓄は深い。ベルトランは鬱で働けなくなって2年が過ぎ、嫌いな義兄のコネで雇ってもらった家具販売店では、すでにベルトランという販売員がいるため「ジャン・リュック」という名前で働くことになる。チームメイトのローラン(Guillaume Canet)は責任ある仕事に就き、美しい家も持っているが、吃音の息子を愛しつつも苛立ちを隠せない。イライラとし続ける夫を美しい家に残して、妻は息子を連れて消えた。老人ホームに預けた母は認知症で、会えば「醜い子、堕ろせばよかった」などのひどい罵倒を息子に浴びせるのが常だ。コーチのデルフィーヌ(Virginie Efira)は、元は国際試合にも出るトップレベルのシンクロ選手だったが、ペアを組む相手のケガでチーム解消となり、競技人生が突然おわる。失意のなかアルコール依存症となったらしいが愛が苦境から立ち直らせてくれた、と思ったがそれは自分の勘違いで、相手からはストーカー扱いされる。
 いや、いろいろある。で、別に、シンクロナイズドスイミングをしたからってそれらの問題が乗り越えられるわけではない。だけど、彼らみんなが、なぜか毎週の練習のためにチームに通ってくる。なんかゆるく楽しい雰囲気があり、仲間のいる楽しさが人生を少しだけ動かしていく。そんな風景を描いたコメディ映画である。


 印象に残ったのは「めんどくさいやつ」という言葉だ。しばしば苛立ち、拗ねてしまうローランは、仲間がゆるく練習していたら「こんなことでよいと思っているのか!」と怒って外に出て行ってしまうようなことを複数回繰り返す。周囲からは「めんどくさいやつ」といつも言われるのだが、でも別に嫌われているわけではない。「おーい、めんどくさいやつ!飲みに行くぞ」と誘われて、また合流する。ちょっと付き合うのにはコツがいって、一筋縄ではいかないやつだが、それでも付き合いが切れない関係がチームにはある。ただ、その一方でローランの結婚生活は破綻してしまう。破綻の原因は説明されないが、「面倒くさいから奥さんにも逃げられるんだ」と仲間からからかわれる。

 「めんどくさいやつ」と字幕が当てられた言葉の、原語のフランス語がなんだったのかは聞きとれなかった。だけれども、なにか言いようのない温かさが耳に残った。

 妻には許容できないローランのめんどくささが、チームメイトだとまあ許容できるとするならば、それはなぜだろう。距離か、遠さか、とふと思う。相手がどんな人でも愛するとか、どんな状態でもそばにいるとか、真面目に考えるとどうしたらそんなことができるんだろう、って思うけど、めんどくさいやつ!とかなんとか言いながら、距離をとりつつやっていけばなんとかなるのかもしれない。
 そう思って思い返せば、映画に出てくる登場人物は、うつ病とか、倒産癖のある中小企業社長とか、中年の夢みるバンドマンとか、アルコール依存のストーカー気質女子とか、近くに居すぎると癖のあるひとびとばかりだ。しかし、ちょっと離れたところから見ると彼らのめんどくささは滑稽で、愛すべき仲間となる、ということを映画は描いていた。その場合近いとか遠いとかってどうやって決まっているんだろう、と考えると、相手とどれくらい関わるかということで、自分の存在がその人に与っているかどうかで測れるのではないかと思う。その人が自分の生活や人格を支えるほどの存在であれば「近い」。その人が潰れると自分も潰れる可能性があったりするから、めんどくさかったり癖のある状態が我慢できない。他方で、その人がどうなっても自分は変わらないぐらいの関係だと「遠い」。ぶっちゃけその人が潰れても構わないから、めんどくささをそのままで愛せる。そして、その遠くからの愛が、その人を支えるような、なんかそんな気がした。


 なんとなく今まで私は、遠い関係は不真面目さを含むような感じがして、人間関係の中で価値の低いものだと思っていた。だけれども、アマチュアスポーツチームのチームメイトのような「遠さ」は、遠いからこそその人を見捨てないで済む面もあるのかもしれない。関係が遠いからこそ、生まれるドラマもあるのではないか。
 裏を返せば、って返してないかも知れないけど、近い関係においても、どこかに遠さを用意しておくことで、長続きするということもあるのかな、と考えたりした。そのままを愛する、ってめちゃくちゃ難しいんだけど、なぜかそれがうまくいっているのがベルトランと妻の関係だったように思う。それはある意味では、妻が夫から距離をとっていたからにも見える。うつ病で夫が働かなくても、妻は妻で仕事をしており、そんなに同情していないのだ。そのために、夫婦には危機は訪れない。

 

 映画はひとつの分かりやすいクライマックスを迎えたあと、もうひとつ静かなクライマックスを迎える。内面で思っていることはみんなバラバラのはずなのだけれど、不思議な一体感がある場面である。一緒にいることでどこか救われるような、遠い関係が作りだした希望が映っていたと思う。

母娘の愛とかをめぐって/鈴木涼美(2017)『愛と子宮に花束を』

本の感想。

愛と子宮に花束を ~夜のオネエサンの母娘論~

愛と子宮に花束を ~夜のオネエサンの母娘論~

 

  『身体を売ったらサヨウナラ--夜のオネエサンの愛と幸福論』(以下、『幸福論』)に続いて、2017年に出た母娘論を買って読んだ。幻冬舎Webサイトの連載をまとめたもの。Web連載の時も読んでいた気がするが、当時はそんなにピンとこなかった。のだが、最近私はがぜん鈴木涼美さんに関心を持ち始めた。そして本を買って読んでみるとめちゃくちゃ面白いのである。彼女が選んでいるクラシカルな(というのが適切か分からないけれど)文体もよくて、縦書きの体裁によく馴染む。

 

 何でこの本を読もうと思ったかというというと、『幸福論』のほうを読んで、随所に出てくる母親の描写が気になったからだった。どの親子関係もそうかも知れないが、この作家の親子関係もまた独特で、この作家はこの母親のことをもっと主題的に書くことになるのかな、と思っていた。そして調べたら次の本が『母娘論』だったので、なんだもう書いてたんじゃん、と思って取り寄せたのだった。
 というか、そもそも私が鈴木涼美さんに興味を持ったのは、Twitterで彼女の次のような発言を見たことがきっかけだった。ネトフリのドラマ「全裸監督」が話題になってた時だと思う。過去のAV作品の販売差し止め的な措置をしてはどうか、というアドバイスに対して彼女は、しようとは思わない、ときっぱりと書いていた。元AV女優という過去を隠しているわけでもないし、という理由に混ざって、「母親がもう亡くなっているので」という一文が入っていた。母親が亡くなっているからAVを流通させたままにしておく、とはどういうことなんだろうと気になった。お母様が亡くなったのが2016年で(著名な方なのでwikipediaがあるのだ)、その頃にはもう週刊誌記事も出ていたはずだから、お母様もAVに出たことは少なくとも知っていたはずだ。もうどちらにしろバレているのだからどっちでもいい、という考え方もできるだろう。だけどTwitterの書きぶりからは、お母様が生きていたらAV差し止めも考えたかも知れない、というニュアンスを感じた。それはどういうことなんだろう、この人はどういう親子関係を生きているんだろう、と興味をひかれたのだった。

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 本書は、鈴木氏自身と母の思い出や、友人知人の夜職の女の子の母娘関係についての観察や、考察などが重なりながらすすむ。途中で2003年頃の淵野辺の一流私立大学に通う女の子というのが出てきて、私も2003年頃に淵野辺の私立大学に通っていたので、ああ、同じ神奈川で、こんな大学生活を送っている人たちもいたのだな、と会ったこともないけどなんだかなつかしくなりながら読んだ。同世代の作家というのは面白いな、と思う。


 短編エッセイの集積なので一つに収斂する結論のようなものはないのだが、問いたずねられているテーマは、母親と娘の間にある、愛みたいな感情だろうか。夜職であろうが昼職であろうが、母は娘を愛し、娘は母を思い続ける。
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 本書には、鈴木氏と母親とのやりとりがたくさん出てくるのだが(特に第I部と第III部)、そのひとつひとつが興味深かった。冒頭に出てくる、人生で二度、母から「強烈な嫌悪と憎しみの眼差し」(p.8)を浴びたというエピソードも印象的だ。幼稚園の頃、人見知りをして初対面の人にきちんと挨拶やお礼を言わなかったら、キレた母に地下鉄の駅で手を離され、はぐれそうになりながらも必死に電車に乗って母を見失わないようにした話。そして、大学生の頃、お父さんの愛車を事故で半壊させて、お父さんは嘆き悲しみ、それを見たお母様がものすごく怒り、それを機に実家を飛び出した話(そして友人の淵野辺のアパートに行く)。その時お母様は「私の愛してるあなたのパパを傷つけるようなことをするあんたのことを私は許さない」(p.70)と言ったそうだ。詳細に書かれたわけではない断片的なエピソードだが、お母様は、おそらく感情の起伏の激しい人だったのだろう、と思う。翻訳者で研究者でもあったからか言葉の反射神経のようなものが高く、かなり何でも言葉で語ってしまうタイプのお母様だったようだ。
 鈴木氏は、その感情の起伏の激しさを冷徹に見つめて分析しつつ、しなやかに対応している。小さい頃の鈴木氏が、地下鉄のなかで必死に母親を探し、はぐれずに帰宅したこともそのひとつだったと言えるだろう。彼女はまだじゅうぶん幼かったはずなのに、必死になって自分の手を離した母についていくことができた。そして、大きくなってからも、多少口うるさいことを言ったとしても、目の前の生身の母親をきっと無碍にはしなかった。ある意味で、小さい頃から甘えていない子供だったのだろうと思う。そして、母と一緒に過ごすことがそれなりに楽しいし誇らしいと思いながら育ってきた感じが、本書からは伝わってくる。
 ちょっと話がずれるけど、鈴木氏は表紙のお写真を見てもすごく可愛いし、SNS上の最近のお写真を見てもその明るい表情を見ていれば心根の優しい善いひとだということは一目瞭然に分かるわけで、その善さをお母様も愛していたに違いないし、その愛に応えようと努力してきたひとなんだなということが推測できる。と、ポートレートだけでこんなに雄弁に語るひともいないなと思うんだけど、とにかく鈴木氏は優しく、淡々と、母と世界を切りとり続ける。

 

 本書の執筆中に、鈴木氏の母はがんによって亡くなる。その過程が第III部に断片的に書いてあるのだが、印象に残ったのは、母と娘の次のような会話である。これは、氏のAV出演などの過去がすべて分かった後の話である。

 母は限られた時間を意識してか、それまでよりも直接的な表現でほかにもいくつかのことを話した。「あなたのことが許せないのは、あなたが私が愛して愛して愛してやまない娘の身体や心を傷つけることを平気でするから。どうしてあなたは私の娘をいじめるの?」と言った。「あなたは私の娘の幸福への無限の可能性をすごく狭めてしまったの」とも。
 そんなことを話しながら母は明日はテレビの仕事だよなんていう私の衣裳を一緒に考えたり、病室で化粧する私にあれこれ注文をつけたりして、「いい娘を一人育てて、幸せだった」なんていうことも言っていた。(p.206)


 前半の言葉は、帯にも引用されている。編集者も、ここが印象に残ったのだろう。
 たしかにこれは強烈で、そして不思議な言葉だ。目の前にいるのは自分が愛している娘そのひとなのに、その娘に「どうしてあなたは私の娘をいじめるの?」と問いかける。一人の娘が、あたかも分裂しているかのように。きつい言葉に見えるけど、けして拒絶ではないことも分かる。愛して愛して愛しているのは、その言葉が向かう当の娘なのだから。多分作家もそう受け止めている。
 母が最大限の愛を注いで育てた娘は、家を飛び出し、夜職に入り、AVにも出演し、良い大学、大学院を出て新聞記者となり作家となった。それはすべて愛している一人の娘に起こったことなのだが、それが母にとっては、たぶん、すっきりと100%腑に落ちることではなかったのだろう、と思う。どうしても、愛する娘のこうなるはずだった姿から、逸脱した姿をみてしまう。そうじゃないはずなのに、と思ってしまう。それでもやはり、娘を愛しているのだけれど。
 愛の矛盾、と私は思う。
 私が愛する「誰か」は、私から見て外にいて、客体だ。だけど、同時に、愛する誰かは主体でもあって、ただおとなしく愛されているわけではない。主体として動き、初対面の人にきちんとご挨拶しなかったり、パパの車を壊したり、夜のオネエサンになったりする。「私」の理想から逸脱することをやり続ける。でもそれは本当は逸脱でもなんでもなくて、真っ当に、彼女が生きた結果なのだった。「私」が育てた聡明な娘が歩み、引き受けていく道なのだった。そして彼女は今も生きて、まっすぐに顔をあげて世界を見つめている。
 自分が愛する理想の娘と現実の娘が違ったとき、一つの語り方として、鈴木さんの母親は娘を分裂させるような語り方を選んだ。それは強烈な倒錯に見えるが、じつはたんなるレトリックにすぎない。母親にとって娘のある面は受け入れがたかったが、母親もまた、目の前にいる娘を無碍にすることはできなかった。自分の理解の範疇を超える娘を、愛さないではいられなかった。そんな母娘の関係が、作家の抑制的な文章から立ち上がってくる。

 愛するということは、それがもっとも正しいかたちで結実するなら、愛するひとの人生の移りゆきのすべてを、愛おしむことであるだろう。たぶん鈴木氏のお母様もそうなさっていた。だけれども、どうしても、自分が愛せると考えている範囲から抜け出してしまう娘に苛立ってもいた。もちろん何が正しい愛で、何が間違った愛で、と断罪するつもりなんて毛頭ないしそんなことそもそも無意味だ。そして別に間違った愛でも構わないのだ。間違った愛し方しかできなかったとしても、間違った愛し方を相手は受け入れることができるから。地下鉄で自分の手を離した母の背を一生懸命目で追った、小さな女の子がそうしたように。母親も娘も、完璧な愛なんてなしえない。言葉は巧みだけど、おそらくその巧みさのゆえに、愛をうまくコントロールできない母と、それを受け入れる娘。二人はそうやって関係を作ってきたのだろう。
 生きた人間を愛する、ということは、矛盾に満ちた行為だ。私の愛するひとは、一瞬一瞬変わっていく。そのとき私も変わっている。だから愛も本当は、一瞬一瞬姿を変えているのだけど、それに言葉が追いつかない。言葉にならなくても、母娘の関係はしなやかに動き続けている。だれもそれを捉まえられないかも知れないけれど、たしかに愛はありつづける。なんかそんなことを考えた読書だった。
 すごく良い本を読んだな、と思い本を閉じる。
 ***
 最後に、この本のおすすめポイントを挙げておくと、夜職やホストクラブなどに不案内な読者にも仕組みがわかるような詳細な注が充実しており、なるほどそういうふうに夜の世界は動いているのね、と分かったりする。すごい楽しいし、勉強になるし、2000年代初頭の風俗が記録されているので後年には資料的価値がとても高くなるだろう(それは前作の『幸福論』もそう)。その意味では、一家に一冊おいて家族みんなで読むべき名著である。

 ただ、夜の世界の勉強にはなるけれど、けっして、たんに知らない世界の面白いエスノグラフィで終わるのではない、というところもミソ。母娘関係のひとつの普遍を書きあらわしえていると思う。その意味でも、お嬢さんのいる家には一冊あるべき本である。前著『幸福論』と合わせて読むとさらに楽しい。

 

お盆の日々

 ラジオは高校野球を延々と流している。これは、放送局の人の夏休み用のコンテンツなのだな、とわかってくる。おそらく、毎日のテレビやラジオの番組のコンテンツを構想して取材して台本を作って収録して編集して・・・・・・という作業を行うよりも、生中継で野球を流す方が、関わるスタッフは少なくて済むのだろう(番組制作過程の詳しいことはわからないけど)。
 高温が続く日本で、熱中症は死に至ることもある重大な健康問題だということが人びとに知られていくにつれて、高校野球をこの時期に行うことへの批判も徐々に高まっている。私も、真夏のもっとも暑い時間に、屋外で未成年をスポーツで競わせる慣習は見直すべきだと考えている。しかし、高校野球は上述の放送局の「夏休み」コンテンツとなっていることをはじめとして、すでに日本社会の仕組みに深く根を下ろしてしまっていて、高校野球が動くと、現行のいくつものシステムを動かさざるを得ない。そうした大きな改革は、大きな力と意志を持った改革者が出てこないことには、きっと無理なのだろうなあ、と思う。あるいは、世論の高まりを待つか。しばらくはこのままいくのだろう。死者が出ないことを祈るくらいしか、私にはできない。
 *
 昼は暑いので、夜暗くなってから運動不足解消のためにウォーキングをする。
 13日の晩、駅前の道を歩いていたとき、猫が車にひかれる瞬間をみた。自動車が猫に気づいてクラクションを鳴らし、猫はビクッと顔を上げたが、次の瞬間には車が猫を通り過ぎた。ひかれた瞬間、風船が割れるような爆発音がした。灰色の、長毛の猫だった。車は止まらずに走り去った。猫はまだ生きていたが、たぶん足を骨折していた。必死に近くの植え込みに転がり込んで、見えなくなった。
 私はひかれる瞬間を見たとき、短い叫び声を上げ、つい目を覆ってしまった。猫の死を見たくない、と思った。しかし、猫は生きていた。生きていたが、何かをもう諦めたような目をしていた。痛みもあるだろうに、身体を回転させるように必死に動いて植え込みのなかへ入っていった。動物病院に連れて行くべき?と思ったが、もう時間は23時近くて、猫は植え込みに入っていってしまい、どうしていいのか分からなかった。植え込みからはしばらくガサゴソと音がして、その後静かになった。私は猫の入った植え込みを見ていた。なにもできない、と思い、私はその場を去った。

 歩きながら、たぶんその晩死ぬ猫のことを考えた。猫はこうして死んでいくのか、と思った。祖父母の家の、急に晩年いなくなった猫も、こうしてふらりと出かけて交通事故に遭ったりしたのかもしれない。灰色の長毛の猫で、ぼんやりした身のこなしであったから、飼い猫だったのかもしれない。

 家に帰って、動物と人間の交通事故を目撃したとき、どうすべきだったか調べていたら、JAFのサイトに、「野生動物と遭遇、衝突したら」というページがあった。

野生動物と衝突してしまったときは、事故の発生を警察に連絡します。(中略)任意保険を使うには事故証明が必要となるため、警察には必ず通報しましょう。
次に、衝突した動物が生きている場合は、衛生面や安全面から素手で動物に触らないよう注意してタオルやダンボール等で保護し、動物病院や保護施設に運びます。動物が暴れたりなど保護が難しい場合は、動物病院や保護施設に連絡して指示に従ってください。基本的に治療費はドライバーの負担になります(野生動物の無償治療を行っている施設や病院もあります)。

野生動物と遭遇、衝突したら|トラブル|JAFクルマ何でも質問箱

 本来ならば、動物をひいた車の運転者がこれらの手続きをすることが望ましいのだろうが、ひき逃げを目撃した場合は、どうしたらよかったのだろう。たぶん正解を示すマニュアルはなさそうだ。二次災害をなくすために、死骸を道の端に寄せて、幹線道路であれば国土交通省の道路緊急ダイヤルに電話をすべきだったかもしれないが、猫はまだ死んではいなかった。

 猫はその時生きていたから、動物病院に連れて行くべきだったのだろうか。たぶん、そうだった、と思う。現実的には、茂みのなかから猫を引き出して保護し、隣町まで夜間にタクシー代を負担して連れて行き、治療費を出すことができたかどうかはわからないが。
 猫は、その日に死ぬつもりはなかっただろう。少なくとも私は、その日に死ぬつもりがなかった猫のために、できるだけのことをしてやるべきだった、と思った。
 

とりとめのない7月の記憶

 7月某日。祖母と祖父を埋葬する。
 埋葬といっても石の中に骨壺を入れるだけで、「埋める」感はなかった。新しく作られた墓石をどかすと、なかに空洞があって、空洞のなかに骨壺を並べる。お墓のなかってこんな風になっているんだ、と知る。
 墓は駅前にあり、場所は覚えたが、その駅は千葉駅からさらに電車で1時間30分も行くような千葉の端っこで、今後なかなか行くことはできないかもしれない。そもそも、墓に参っても石と骨の灰しかないわけで、縁のある親戚がいるわけでもなく、墓に行くモチベーションがない。けれども、祖父母には会いたいような気がする。もう会えないのは分かっているけれど、何かとりすがるためのかたちがほしいと考えると、それは墓なのかもしれない。しかし。墓に参るという形式的で型どおりの振る舞いに、気持ちをうまく乗せることができないような気もする。いままで死者とそんなに付き合ってこなかったからかな、と思う。死者との関わり方が、私はまだよく分かっていないのだ。

 *
 その後、慌ただしく前期の最終授業などが続いた。いろいろテストを作り、実施し、採点して成績をつけた。そして慌ただしい日々は、一応の終わりを迎えた。
 このダイアリーも更新の間隔が空いてしまったけれど、春から新しい街に住んで、新しい仕事を始めた。大変だったような気もするが、20代のころ新卒で会社に入ったときのように、心が追いつめられるような大変さはなかった。歳をとって大人になって心のキャパシティが拡がっていたというのもあるかもしれないし、なによりも、同じ職階に同時期に入った仲間が複数いたからというのが大きいような気がする。新しい組織に入ったときに誰もが抱くようなちょっとした疑問は、同僚と話し合って解決できたし、愚痴も言い合えた。なにより、みな責任感のあるコミュニカティヴなひとたちだったので、一緒に働いてとても快適だった。毎日毎日とても忙しかったけれど、人間関係で困ったりすることは何もなく、楽しく仕事を続けることができた。
 なぜこんなに一緒にいてストレスのない、気持ちのいいひとたちが同時期に採用されたのだろうと毎日思っていた。その秘密は未だ分からない。採用者にマッチングの目利きがいたのだろうか? そうかもしれないが、30分ぐらいの面接でその人はわかっても、メンバーの相性まではわからないだろうから、たぶん偶然なのだろう。みんな、なぜ自分が採用されたのかわかっていない。なぜか採用され、集まって、仕事を始めたら上手くいった。これはとても幸運なことだったのだろう、と思っている。
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 学期の最後の日、同僚で集まって私の家で打ち上げ会をした。よく考えれば、私は自分の家に人を招くことをしたことがなく、いろいろと緊張したし失敗もしたが、心やさしいみなさんなので楽しく過ごせた。少なくとも私は楽しかった。
 前菜に砂肝の酢漬けを作ったのだが、これは思い出してみれば祖母が私に教えてくれた料理だった。大学1年生のころ、祖母の家で食べた砂肝がおいしく、どうやるの?と聞いたら教えてくれたのだった。祖母から教わった料理なんてそのくらいだ。砂肝を茹でて酢醤油に漬けるだけという料理ともいえない料理だが、みなさんおいしく食べてくれた。
 何となく無意識のうちに、私は祖母をここに呼びたかったのかもしれない、とあとから思った。やさしい同僚に囲まれて、私が幸せに生きている場所に、祖母も招きたかった。祖母が亡くなってまもなく一年になる。それよりも以前、祖母と一緒に住まなくなったときに遡ると、祖母の元を離れて、もう25年ぐらいだ。考えてみれば祖母と一緒に過ごした時間は、人生のなかでほんのわずかなものだった。これからも相対的にどんどんわずかになっていくだろう。だけど、なぜだか、祖母の存在感は私のなかでだんだん大きくなっていくような気が最近している。私がいまここで働けているのは、祖母が私を見ていてくれた時代があったからだ、という、そんな気がするのだ。
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 その週末、新しく住み始めた街でお祭りがあった。1ヶ月ほど前から、いろんなところでお囃子の練習が聞こえていた。町内の子供が練習をして、町内で出す山車に乗るらしい。お祭りの本番、40℃ちかい気温のなかで、子供がかけ声をかけながら、お囃子の太鼓を真剣な顔で叩いている。子供の真剣な顔と声は、なぜか胸に迫ってくるものがある。
 能で子方が出てきたとき、その場の空気をすべて持っていってしまうようなときがあるけれど、お祭りの子供の声も、それに近い、と思う。子供のけなげさのようなものが世界の平衡を少しずらし、祭りを日常の文脈とは違った世界に接続してしまうような感じだ。子供だから純粋だとか清らかだとかいうつもりはないのだが、たぶん子供を見ると、自分の子供のころの視野も心も狭量だったころを思い出してしまって、あんなに何も分からないのに、この世界で生きていくのは大変だろうと思ってしまうのだ。もちろん子供は子供なりの仕方で、この世界を認識し、彼らなりに理解して生きているのは分かっているのだが、その子供なりの認識で、精一杯生きていることに、大人は勝手に胸を打たれてしまう。そのために動員される子供にはご苦労なことだが、子供はそんな大人の思惑を外れてただひたすらにお囃子をならし続ける。
 子供は一気に大人にはなれず、誰もがひとときの子供時代を生きるしかない。そんな子供のころを、私の場合は祖母が、私が安全に生きることができるように見守っていてくれたのだな、と思う。子供時代のろくでもない私でさえも支えてもらったという経験が、いまの私の精神的な土台になっているのかな、と思う。あんな馬鹿な子供を愛してくれた人がいたのだから、まあ、あの頃よりは少し視野も広く周囲への配慮もできる大人になっているのだし、だいたいのことはなんとかなるさ、と思える。今も碌でもない大人やけどな。

 私は大人になったし、祖母は死んだ。もうこの世にはいないけれども、祖母と過ごした日々が、私の魂を今日も支えてしまう。子供の頃は短いようで長い。そんなことを考えていた。

チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房、2018)

不条理を乗り越えない、弱い私たちの表明のために

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

 本書は、1982年に生まれて、「キム・ジヨン」と名付けられた韓国女性の半生を描いた中編小説である。キム・ジヨン氏のかかりつけの精神科医のカウンセリング記録という形式をとっている。

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 前評判で知っていたのは「韓国で売れたフェミニズム小説で、日本でもヒットしている」というくらいだった。最初、意外にもサイコホラー風に始まったから、なにそういう話なの?面白そう、と思って読み進めたが、サイコホラーとして回収されることは(ある意味では)なかった。ただ、終わり方は結構こわい。こわいのはなぜか、というと、これはまだ解決方法を誰も知らない問題を描いた作品だからだと思う。   

 解決方法のない問題とは何か。ひとことで言えば、女性として生きることに伴う問題である。ひらたく言えば女性差別。嫁は男児を生まないと白い目で見られるとか、弟が姉たちよりも優遇されるとか、男性社員の方が仕事ができないのに責任あるプロジェクトに選ばれるとか、給料が高いとか。そして、育児に責任を持つのは母親であることとか。社会には、そこかしこに女子の魂を削ってくるような事実がある。別に周りの誰が特別悪いわけじゃない。でも女性がただ生きているだけで削られていく。

 主人公キム・ジヨン氏の夫、チョン・デヒョン氏だって悪い人じゃない。ジヨン氏を愛しているのだろうし、理解しようと努力している。でも、子育てと仕事の両立の不可能に打ちひしがれ、退職を決めて落胆している妻に対して、つい「僕もちゃんと手伝うからさ」とか言ってしまうのがデヒョン氏だ。

「その「手伝う」っての、ちょっとやめてくれる? 家事も手伝う、子育ても手伝う、私が働くのも手伝うって、何よそれ。この家はあなたの家でしょ? あなたの家事でしょ? 子どもだってあなたの子じゃないの? それに、私が働いたらそのお金は私一人が使うとでも思ってんの? どうして他人に施しをするみたいな言い方するの?」 (以上、ジヨンのセリフ。本書から引用。) 

 こうしたジヨンの思いは、韓国だけではなくて日本でも完全に「あるある」の話なのではないだろうか。日本語でも、こうした主張を読んだことが何回もある。おそらく、全世界的に普遍的なジェンダー「あるある」がふんだんに盛りこまれているのが本書の特徴だ。ジヨンの感情は自分も分かる、と思う人は世界に35億人ぐらいいるのではないだろうか。だから、この本はベストセラーになったのだろう。誰が読んでも、これは自分の話だ、と思えるのだ。ただ、その「あるある」的な共感だけがベストセラーの理由ではないと思う。もっと深いところで、女性の経験を肯定する役割を本書は果たしている。

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 本書は啓蒙書的な側面ももつ本でもあって、韓国の女性が置かれた状況のデータを典拠付きで示してくれる。韓国では賃金の男女格差が激しいこと、結婚後も夫婦別姓だが、子供には95%が夫の姓をつけること、2014年に「大韓民国の既婚女性五人のうち一人が、結婚・妊娠・出産・幼い子供の育児と教育のために職場を離れた」ことなど、客観的事実も説明してくれるのだ。韓国で女性が置かれた状況が、キム・ジヨン氏の主観的感情描写と、客観的データという両面から分かるようになっている。「あるある」がなぜ「あるある」なのか、客観的データでもって表現されているといえよう。

 物語では、キム・ジヨン氏とその母という年齢の違う二人の女がでてくる。母オ・ミスク氏は、したたかな賢人だ。貧しい家庭の出身で、女子であるがゆえに十分な教育を受けることはできなかったが、冴えない公務員であった夫が道を誤らないように導き、家業を成功させる才覚と強さをもっている。子育ては大変じゃなかった?と尋ねるジヨンに、オ・ミスク氏は「やんなきゃいけないことだらけなのに、眠いし、身体の具合は悪くなるしで、地獄みたいだった」と答える。その母の答えに、キム・ジヨン氏は考え込む。

なのに母はどうして、辛いと言わなかったのだろう。キム・ジヨン氏の母親だけではなく、すでに子供を産んで育てた親戚たち、先輩たち、友だちの誰も、正確な情報をくれなかった。テレビや映画には器量が良くて愛らしい子供しか出てこないし、母は美しい、母は偉大だと繰り返すばかり。もちろんキム・ジヨン氏は責任感を持って、可能な限りちゃんと子どもを育てていくだろう。だが、感心だとか偉大だとか言われるのはほんとに嫌だった。そんなことを言われると、大変だってことさえ言っちゃいけないような気がするから。(以上、引用。)

   ジヨン氏と母が感じている家事・育児の困難さは変わっていない。オ・ミスク氏は、その困難を、おのれの才覚でしたたかに乗り越え、生き抜いた。でもジヨン氏は、その困難さが、やはり不条理だということに立ち止まり続ける。

 その立ち止まりによって、母たち世代のしたたかさが、もしかしたら社会にとっての毒であったのかもしれない、という可能性が開かれる。辛い状況におかれても、女性たちが賢く、したたかに生き抜いてきたことで、これまで女性をめぐる状況は変わってこなかったのではないか。その賢さとしたたかさは偉大だし素晴らしいと思うが、それによって社会を甘やかしてしてしまったのではないか。人間なのだから、辛いときは辛いって言いたい、大変なことは大変だって言いたい。そう言って表明することから、社会が変わっていくのではないか。ジヨン氏はおそらく、そのことを本能的に分かっている。だから、自分の賢さだけで対応せずに、不満を口に出すことができている。その意味では、ジヨン氏が母よりも一歩進んでいると思う。  

 それは、オ・ミスク氏の世代の母たちが、自分の娘たちにわが身を削ってでも高等教育を受けさせてきたことの成果でもあるのだろう(この点については、伊東順子氏による「解説――今、韓国の男女関係は緊張状態にある?」に詳しい。この解説がまた素晴らしい)。娘たちは、したたかさや才覚だけではなくて、弱さを表現できる人間としての誇りを手に入れた。そう考えると、この小説は、ひとつの過渡期を表現した小説だと言えるのかもしれない。   

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  私は本稿の最初に、本書は終わり方がこわい、と書いた。たしかにこわい。まだ男女格差の問題の解決法は示されていないからだ。示されていないばかりか、物語は一見ただ女性の境遇の苦しさの告発をしているだけで解決しようともしていないように見え、最後にはジヨン氏は精神的な病を抱えてしまっているわけだから、まったく何の救いもないようにもみえる。一筋の光もない世界だ、と絶望的にもなる。

 でも違うのかもしれない。私たちは弱い、これだけ迫害されている、ということを、世界に向かって言えるということ、それだけで、大きな進歩なのだろう。 

 そこまで考えて、これはもちろん、2017年からの metoo運動とも繋がっていることだな、と気づく。これまで、この世界にしがみつくために、女たちが涙を呑んで身につけてきた強さを脱ぎ捨てて、自分の弱さを肯定しこのままで私はこの世界で生きていきたいんだ、と表明することが始まっている。空気なんて読まない。不条理は不条理だ。おかしいことはおかしい。いまそれが世界的なムーブメントとして起こっている。その過渡期の一書として出てきたのが、この『82年生まれ、キム・ジヨン』と言えるのではないか。

 ジヨンの経験はけっして度を越して酷いものではない、ある意味で「ありふれた」女性差別である。それでも、その経験の羅列を読めば、それが人格を壊してしまうような強度の経験であるということに、本書の読者は気づくだろう。本書は女性たちが乗り越えてきた不条理を、乗り越えないすがたを描いたものなのだ。ジヨンの病は、私たちの病である。物語のなかでジヨンが精神のバランスを崩すことは、あなたも弱音を吐いていい、苦しくて当たり前のことがあなたの周りで起こっている、ということを伝えることでもあるだろう。そのことが、本書が多くの読者に手にとられたもう一つの理由なのではないか。

 女は賢くも強くもない。一人の人間だ。それが当たり前に受け入れられるために、いま世界で言葉が紡がれ、読まれているのかもしれない。

三浦しをん『ののはな通信』(KADOKAWA、2018)

ののはな通信

ののはな通信

 

 眠れない夜に小説を買って読んだ。ずっと読もうと思っていたものの、まだ単行本しか出ていないから、どうしよう、と迷っていた。単行本は安くはない。でも読み終わってみると、映画一本分の値段でこんな濃厚な世界に4時間ほども触れることができるのだから、そう考えると高くない、と感じた。
 三浦しをんを集中して読み始めたのは去年で、わたしはこの作家の創りだす苦みのあるドライな物語の世界が好きになった。多田便利軒シリーズを読み終わったある日、総武線で、向かいに座ったご婦人が、市川市図書館のバーコードのついた『ののはな通信』をくいいるように読んでいるのを見たのだった。面白そう、と思い、船橋市図書館の蔵書を検索したら、貸出を待つ人の列が50人ぐらいだった。50人は待てない、と思った。そして買うチャンスを待っていて、眠れない夜がやってきたのだった。
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 『ののはな通信』は、「のの」と「はな」という1960年代後半に生まれた女の子ふたりが、女子高生の時代から中年女性になるまでに行った手紙や電子メールのやりとりを通して、生きることの意味や愛を探っていく過程を描いた長編小説である。ある意味でBildungsromanと言ってもよいだろう。全編が書簡で構成される。時代背景は、「かい人21面相」の事件があったころから、東日本大震災があった春まで、つまりわたしが生まれて、大学院に入るころまで。いちいち個人的なスケールで語るなよって感じだが、ついそう語りたくなる。わたしが生きていた時代を、彼女らも生きていた、そんな風に捉えたくなるからだ。そして、彼女らは設定ではわたしより16年くらい年長ではあるが、やっていることが自分の少女時代とそっくり重なって、自分の来し方と将来を思わずにはいられない。
 本書は書簡小説であり、登場人物たちのあいだでなされるコミュニケーションの量にまず圧倒される。女子ならばさして珍しいことではないのだろうが、わたしも中学生のころ、手紙でよく友だちとやりとりした。ただ、だれとでもそうしたわけではなかったな、ということをこれを読みながら気がついた。決まった友だち、1人だった。彼女が親友だったというわけでもないと思う。それに、ののとはなみたいに特別な愛を分かち合っていたわけではない。ただ、私が書くうっとうしく観念的な長文の手紙を読んでくれた奇特な友だちがその子ひとりだったのだろう。他の人とは手紙のやりとりは続かなかった。そんなことを思い出しながら読んでいたわけだが。

 読みながら、長い手紙を、少女はどうして書くのだろう、ということを考えていた。なんでこんなに、コミュニケーションをしようとするんだろう? ののとはなは。そして私たちは。

 ののとはなは、長い手紙やメールを送り合うなかで、自分の感情を言葉にしていく。小説であるという事情も手伝って、わりと事柄の説明も親切にしてくれているので(感情の描写だけだとよく分からなくなるものね)、二人の手紙は信じられないくらい長文である。送り合った手紙の紙束を、二人は別れるときに、捨てずに相手に送る。その紙の束が、二人の関係の証になったりもする。以下に引用するのは、ののからはなに、手紙の束を送ったあとに、受け取ったはなが書いた手紙の一節である。

 手紙とはべつに、ののからの荷物も届いた。ほんと、手紙の「山」だね。私たち、よくこんなに書いたね。ヒマなのかな。昔のぶんから順に、一通一通読み返した。見慣れたののの筆跡。私の字は子どもっぽい。これだけ言葉をやりとりしたのに、私たちはとうとうわかりあえず、これからもわかりあうチャンスがないまま、離れていくしかないのかと思うと、涙があふれた。
 どうして言葉なんてあるんだろう。友情とか恋愛とか、男とか女とか、言葉はなにかを区別し、分断するためにあるとしか思えない。言葉がなければ、私たちはただ一緒にいられたのかもしれないのに。この苦しい気持ちも、うまく言葉にならなくてモヤモヤする思いもなくなって、日なたで二人して昼寝できたかも知れないのに。丸めた体を猫みたいにくっつけあって、ぬくぬくと幸せに。(『ののはな通信』二章「昭和64年1月7日」付けのはなの手紙より)※
(※手元にあるのが電子書籍版のため、ページを参照できず。二章の終わり付近。)

 

 「言葉はなにかを区別し、分断するためにあるとしか思えない」。それなのに、二人は言葉を重ね続けてきた。この部分を読んだとき、君たちの愛は、徹頭徹尾言葉のなかで展開してきたのにね、と思った。はなは「言葉がなければ」と書いているけれど、言葉がなかったらきっとこの愛は生まれていない。でも同時に、言葉は二人を分断する。分断するからこそ、そこに結びつくことの可能性が生まれてる。それが同時にまた、苦しい思いを生むことにもなるのだけれど。愛にとって言葉は逆説的だ。

 なんだろう、だから、手紙を書き送るというのは、別れながら繋がっていくいとなみだったのだろう、と思った。モヤモヤした内心を言葉にして書き表すことによって、あなたではない私がどうしても析出されてくる。あなたと違うから、あなたにわかってほしくて、あなたにわかる言葉で書き記す。でも、言葉は、どうしても埋められない溝や、遠さを浮かび上がらせる。ひとは、繋がりながら、遠ざかる。遠ざかるから、理解する。当たり前といえば当たり前のことだけど、普段は忘れているような、言葉の本質を、書簡小説は思いださせる。

 そうね、だから。少女たちはきっと、自分でありながら他人と繋がるために、書くしかなかったのだ。文章にして自分の輪郭をクリアにして、それから他人と繋がっていく。書くことは、いずれにしろ遠ざかること。わたしたちは遠くにいて、あなたを思い続ける。書簡小説という形式は、そうした愛のあり方を、その形式によってあざやかに提示している、と思う。恋愛を描くのに向いている形式なのかもしれない。

 小説のなかで、ののとはなが直接出会う場面が描かれることはない(会った思い出は描かれるんだけど)。時間的にも空間的にも、遠く離ればなれになってゆく人間たちの物語だった。それで、そうか、人間って一般にそういうものなのかもしれないな、とわたしは思った。愛しあう二人が、一緒に生き続けることは滅多にない。わたしたちはすれ違いと誤解と離別をするために生きている。だから。そのことを必要以上に悲しむことはない、のかもしれないと思った。そんなわけで、読んだあと、わたしはすごくささやかに勇気がわいた。ひとがともに生きることは、離ればなれになってゆくことなのだ。そう気づいて、気持ちが明るくなったのだった。

一月の門出

 ここ数年、年が明けてから1日だけ休んで、そのあと1週間くらいは休まず仕事をすることにしている。それはたぶん親戚の集まりとかが気が重かったからなのだが、でも今年は祖母も亡くなってしまい親戚の集まりはほとんどなくなった。一つだけあったが、そちらのほうも祖父はかなり衰えている。祖父は大正末年生まれだと言っていたような気がするので、おそらく93歳。90歳過ぎというのは、生きているだけでかなりいろいろと難しくなる年齢なのだろう、とひしと感じた。90歳のかたわらで、2歳の親戚の子供がやっと話せるようになったばかりの言葉が楽しくてたまらないといったような感じでひとりおしゃべりをし続けている。2歳だがすごく気遣いのある子どもで、周りの大人と順番に遊び、平等に愛を振りまいていた。子供がいるとその場所の雰囲気が変わる。なんとはなしに、和やかになり、空気が軽くなる。自分の子じゃないけど、子は鎹とはよく言ったものだ、と思った正月だった。
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 1月1週目はそうして正月の仕事で過ぎていき、2-4週目は平常のルーティンの仕事があった。止まることなく仕事をしていると、ただただ時間が過ぎていく。そして、1月いっぱいで年度が句切られるような環境に勤めているので、1月の終わりには多くの人との別れがあった。この人たちと会うのは今日が最後だ、と思うと、私は緊張してうまく話をすることができない。何か意味のあることを言わないと、と思ったりするせいかもしれない。でも、最後に3分を確保して、なにか印象に残るようなことを言うのは、じっさい難しい。相当準備しないと無理だし、加えて、正直なところを言えば、私はそういうガラでもない気がする。自分を演出して装うようなことが苦手なのだ。そのため、結局いつも通りの「ではこれで終わりましょう」となった。
 「有終の美」とはほど遠い、凡庸なお別れを繰り返しただけだったが、それでも毎日最終回が続いた1月最後の1週間は精神的に堪えた。「はじまり」はそんなに緊張しないが、「終わり」は緊張するのはどうしてかな、と思う。終わりは一度きりだからか、と考える。はじまりだと、最初に失敗してもやり直すことができる。しかし終わりは一度で終わってしまい、もう二度と同じ人びとには会えない。そう思うがゆえに、緊張をしてしまうのかも知れない、と考える。
 でもさらに考えてみれば、「はじまり」も一度きりである。初回の失敗はあとでリカバリーできると思っても、はじめて会ったその一回は厳密には一度きりで、二度とはこない。というか、一回目も二回目も、どんな機会であれおとずれるのは一度きりだ。「また来週」と別れても、突然の死とか、転職とか、災害とか、もう二度といまの目の前の人びとに会えなくなる可能性はいくらもある。いつだってその時が最終回かもしれないのだ。ほんとうならば、毎回同じような緊張感をもってその場に臨むべきだと思う。
 そうであるのに、「終わり」より「はじまり」のほうが緊張しないのであれば、私はきっと「はじまり」や「日常」を軽視しているのだろうと思う。今日と同じ明日が来ると無根拠に思っている。また来週同じ人びとに会えると思っている。そんなことは、本当は決まっていないのに。なにか、甘えているんだと思った。しかし何にだろう。
 少し別の角度から考えてみる。
 私はいくつかのタイプの仕事を並行して行っていて、そうしていると新しいことや難しい仕事にどうしても時間を割くことになってしまい、一度やったことのあることや比較的簡単な仕事は力の入った準備ができないということになることも多い。キャパシティが有限なので仕方のないのだが、サービスを受ける側からすると私の事情などは関係のないことはわかるので、私はなんとなくいつも罪悪感をもっていた。「ある程度、流していく感じで仕事をこなしていくことも必要だよ、本業は別にあるのだから」というようなアドヴァイスをよく受けて、たしかにそれも一面で真実だと思う反面、それは物事を自分の都合のいいように考えてしまっているのではないか、という思いがずっとあった。「忙しいからこれくらいのクオリティで仕方ない」をつづけると、なんだか自分が壊れていく気がする。仕事に対するスタンスは人によってまちまちだと思うし、ライフステージによっても優先順位をつけざるを得なくなることもあるだろうが、たぶん私はすべてに全力で取り組みたい人間なのだ。今年はそうできていないから、後悔が溜まって、年度末の最終回でいきなり緊張したりするのだと思う。毎回を「流して」やってきてしまった後悔や罪悪感が、最終回に響いてしまう。そうか、甘えていたのは、自分の「忙しさ」に、だと思った。
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 それで私は、仕事を減らそう、と思った。中途半端な仕事をせざるを得ない状況に自分をおいているのは、精神衛生上もよくない。仕事の体系をシンプルにしたい。それで結局、いちばん好きだったが、いちばん本業と遠かった小学生相手の仕事をやめることにする。これで、だいぶ私の仕事はシンプルにはなった。

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 しかしこの仕事の変化が、いま私に切なさを生んでいる。私は、小学生に毎週会う仕事が、楽しかったんだな、と思う。子供は、私にとって、なにか自分の背筋を伸ばして、しゃきっと前向きな気持ちにさせてくれる存在なのだった。来週も彼らに会いたい、と思うと、元気で1週間を過ごせる。なんでだろう。何となく昔からそうなのだ。子供を見ていると心がすっと前を向く。そのとき言うべきこと、やるべきことが子供を前にするとしぜんと見えてくる。子供とは、嘘がなく付き合えるから、のような気がするけど、どうしてだかはわからない。大人相手だとこの状況は生じないんだよなぁ。
 そんなわけで、精神安定効果のある仕事を減らしてしまったために、今後の私の精神状態がどうなるかわからないけど、まあでもこれで、本筋の仕事に集中できるのではないか、と思う。選択がまちがっていなかったと思えるような1年にしたい。