余裕と生活――「ご自愛」考

 4歳か5歳ぐらいの頃だったと思うが、補助輪付きの自転車を買ってもらい、乗り回していた。女児向けの自転車で、ハンドルの中央部に、ぴかぴか光るピンク色のライトがついていた。ダイナモではなく、電池が動力源で、スイッチを入れると点滅するのだった(音楽も鳴ったかもしれない)。しばらく乗り回していると、ある日、ライトが点かなくなった。祖父に相談すると、電池の交換が必要だということを教えてくれた。電池は、ドライバーでライトのプラスチックのカバーを外さないと取り替えることができないという。私は祖父に手伝ってもらいながら、ドライバーを使ってライトを分解し、電池を入れ替えた。そして、またドライバーで元通りにライトを直した。
 一連の作業を、祖父は非常に褒めてくれた。○○ちゃんはすごいなあ、なんでもできるなあ、とやたら褒めていて、子供心に、たいしたことないのにすごい褒められた、と思うくらいだった。
 夕食の席でずっと、焼酎に梅干しを入れたお湯割りを飲みながら、「○○ちゃんはすごいなあ、5歳なのに、ドライバーでネジをまわして電池を交換してしまうんだから、じいちゃんは感心してしまったよ」と言っていた。なんとなくその日のことを今でも覚えている。

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 そうした記憶をたどり直すと、私はわりと小さい頃から何でも1人でやり、できたら褒められるという恵まれた環境で育ったような気がする。その恵まれた環境は、同居していた祖父母の影響が大きかった。うるさいことは言わず、好きなように過ごさせてくれた。祖父は、立派な工具箱をもっていて、家の中の大抵のモノは自分でどうにかする人だった。そういう姿を見ていたので、私も自分でできることは自分でしようと思うようになり、トンカチやのこぎりを借りていろいろなものを作った。また、祖母が家庭菜園で野菜を作ったり、梅干しを干したり、大根を漬けたりするのもいつも見ていた。今も何かを修繕したり、漬物を作ったりするのが好きであるのは、祖父母の影響であるのかもしれない。やれることは何でもやってみたいのだ。

 そのような幸せな子ども時代を過ごしてしまったため、学校に入ってからのカルチャーの違いがいろいろとしんどかったのだが、それはまあいいとして、いま考えたいのは、家庭の中で居心地がいいとはどういうことなのか、ということだ。私はなぜそんなに恵まれた子ども時代を過ごすことができたのか。
 祖父母はめちゃくちゃ優しかったが毎日褒めてくれたわけでもなくて、上述のように分かりやすく褒められた記憶は、二つくらいしかない(もう1回は、祖父的には難解だった落語を幼児の私が理解してケラケラ笑っていることで、おまえさん分かるのかい?えらいねえ、と褒められた)。褒められることはそんなになかったものの、一緒にいて否定されることがほとんどなかったような気がしていて、それがよかったんじゃないかと今は思う。祖父母は、いつも見守ってくれた。
 祖父母が私に否定的な介入をまったくしなかったのは、おそらくは娘である私の母の方針を尊重するためだった。祖父・祖母ともに太平洋戦争の頃が10代の頃と重なっていて、彼らは混乱の中で小学校も満足には出ておらず、10代前半から働き通しで生きてきた。大学院で教育学を学んだ娘の子育て(つまり私の母が私を育てること)には口は出せないという遠慮があったように思われる。祖父・祖母ともにインテリではなかったが、学問への敬意のようなものがおそらくあり、娘の子育て方針を尊重していた(娘である母はその父母のことをあんまり尊敬してなかったんだけどそれはまた別の話だ)。だから、私が何をしても、否定はしないという態度で見守っていたのだろう。

 祖父母はインテリではなかったが、「生活」する能力は高かった。祖母の作る毎日のご飯はすべておいしかったし、家も清潔に整い、家計もそれなりに管理されており、貧しくもなかった。祖父は55歳で定年退職していて、年金暮らしだったはずだが、多分年金だけでそれなりに食べれるくらいはあったのだろう。あるいは孫を預かることで、子どもからもいくらか家計に入っていたのかもしれない。祖父は、昼間は買い出しや庭の管理などの家事をして、夕方になると相撲を見て、夜になると晩酌をしながらプロ野球中継を見ていた。祖母は、昼間は家庭菜園をしたり、習い事の詩吟をやったりし、夕方になると近所の人としゃべったりしながら私が遊ぶのを見守り、夕食を作り、夜は私たちとみるともなくテレビを一緒に見て、時間になったら私たちと寝た。そこには、言葉はあまりなかったが、生活があった。日々はたんたんと過ぎ、生活全般に余裕があった。経済的余裕、時間的余裕、能力的余裕、精神的余裕。いろんな余裕の中で育てられたことがよかったのかなぁ、と今はなんとなく思う。

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 一方でいま私は余裕がない。仕事が忙しいし、ひとり暮らしだし、給料は安く、契約社員なので昇給も賞与もなく、契約には年限がある。年限までに業績を上げて、次の仕事を見つけなければ失業だ。時間的余裕のなさのために、家事は思うようにできないし、仕事も思うようにできず、パニクっていたら、彼氏に何で時間管理もできないの?何でそんなに仕事ばかりしてるの?と叱られる(ように受け止めてしまう。当人はまったく責めているつもりはなくても)。毎日毎日何かに追い立てられている。自分がなんかすごく価値のない、何もできない人間に思えてくる。
 なんか私、砂漠にひとり取り残されているような気がするんだけど。おーい!だれか!私に蜘蛛の糸でも降ろしてくれないか、と思っていた日、自宅の壁のコンセントが壊れた。何だよこのクソ忙しいときに、と思いながら、ドライバーを使って直していたら、ふと、ドライバーで電池交換をして褒められた5歳の時の記憶がよみがえってきた。私が私の手を使って、何でも自分でやってみようとすることができるのは、あの頃の経験があるからだろうな、と思った。ゆったりとした時間の中で見守ってくれた祖父母がいたから、そこそこの生活能力が身につき、ある程度の修繕ならば物怖じせずになんでもやってみる度胸がある。なんとなく暮らしていけているのは、子どもの頃に体験した「生活」の痕跡があるからだ、と思う。
 「生活」というものは、やはりちゃんとしようとするとものすごく時間がかかることなのだろう。かなりの余裕があってはじめて、生活を十全に切り盛りし、子どもを慈しみをもって眺めることができたのではなかろうか。多分私の両親だけではそうした環境は作れなくて、私の場合は祖父母がいたから、生活のある家で子ども時代を過ごすことができていたのだろうと思う。いろいろな偶然が重なって、私は幸せな子ども時代を過ごした。祖父母に余裕があり、大切に見守ってもらえたし、祖父母がいたから、猛烈に働いていた両親も少し生活に余裕があり、私のこともおおらかに育ててくれたのだと思う。

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 そうしたことをつなぎ合わせてみると、「生活」というのはなにか、自分で自分を構うことなのかもしれない、と思う。仕事は基本的には家の外部の他人をかまうことであり、それで外部からお金を稼いでくるわけだが、生活は、自分をかまい、自分を愛して、明日も生かすことなのかもしれない。まあ再生産ということだ。私は仕事で、日々他人をかまうことはしているけど、自分に振り向ける時間がとれていない感じがある。結局、仕事のやりがいとかいきがいとかなんとかゆうても、自分の暮らしがうまくいっていないと、生きていける感じがどんどん減っていくのかもしれないな、と思った。生活とは、自愛なのか。

 ひとり誰もいない砂漠でさまよっている気分を脱するために、私は今週末、自分で自分をかまってやろう、と思い、せっせと掃除をして、植木鉢に植物を植え、ゆず味噌をつくった。祖父母のようには達者には暮らせはしないが、できるところまで私は私の生活をしてみようと思う。

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 みなさまもどうぞ、ご自愛ください。健康をお祈りしています。

男に女は守れない――梅雨の韓国ドラマ視聴日記

 このところ、過労状態が続いていて、自分の好きに文章を書くような時間が全然とれなかった。久しぶりにテキストアプリを開いて、リハビリがてら少し書いてみる。

この長い梅雨に韓国のドラマを見続けた話

 いつまでもやまない雨、いつ終わるともしれない労働の合間、Netflixで韓国ドラマをずっと見ていた。話題になっていた「愛の不時着」に、ご多分に漏れずものすごくハマって、その後は「椿の花咲く頃」を見始め、わずかな時間を縫うように、ずっとドラマを見ていた。同じドラマを繰り返し見た。ハマりすぎてもはや韓国語で理解したくなり(とくに韓国語の敬語とため口の違いを聞き取りたくなり)、とりあえずまず文字を学び始めようと入門書を注文した。まだとりかかれていないけれど。

 毎度思うのだが、韓国の映像作品のレベルの高さには舌を巻くほかない。何より俳優がみな演技がうまい。なんでこんなにレベルが高い俳優ばかりなんだろう、と芸の細かさに毎度驚かされる。加えて、ドラマの画面がものすごく美しい。ロケーション、カメラワークともに優れていて、破綻のない脚本を十分に映像化する能力に、ああすごい、と何度も思ってしまう。何気ないシーンが、めちゃくちゃ美しく、どういう人がどう狙うとこういう絵が撮れるんだろう、と感動する。

 その美しさは、撮影の技術もあるのだろうが、撮影にかかっているコストの潤沢さもあるのだろう。たとえば、「愛の不時着」の8話で、主人公が暗い山の中で道に迷い、断崖にさしかかり絶望するシーンのあとに、3秒ぐらい映る高所からの引きの絵が入っていたりする。そのアングルによって、行く当てのない感じがよくでている。その引きの絵を撮るためには、きっとドローンとかクレーンとかを使わなければならないはずで、この3秒のために撮影機材や追加スタッフ、1時間ぐらいの撮影時間が追加されているのだろうな、とか考えると、潤沢な予算と、それを許す映像文化の蓄積のようなものを感じる。「椿の花咲く頃」3話には、えもいわれぬ緑色の夕焼け空を背景にするシーンがあるのだが、この夕焼けをどれくらい待ったんだろう、と思う。そして、この美しい夕焼けの時間はとても短いはずなのに、確認できるだけで8パターンのカメラの位置があり、ストーリー展開に合わせてアングルが変わっていく。これを1日で撮影できたのだろうか、どうやって撮っているのだろう、と疑問がつきない。Netflixの資本が入り、世界展開を狙って潤沢な予算で作っているのだろうとは思うのだが、毎週2時間作らなければならない連ドラでこのクオリティを維持できるのは相当のものだなと思う。。

 そして、なによりもストーリー。(以下、多少説明やネタバレを含む。)
 「愛の不時着」と「椿の花咲く頃」、この二つの作品は、もちろんまったく別の作品なのだが、女性の主人公がさまざまな逆境のなかで働いて自力で稼ぐひとであり、そのひとに惹かれ彼女を守ろうとするひととくりひろげるロマンティック・コメディというところが共通している。(「椿」のほうはそれにサイコサスペンス要素も入ってくるのだが。)

 一昔前の韓国ドラマだと、出生の秘密とか後宮の女たちのどぎつい政治的駆け引きとか(すいません、2010年頃にNHKで見てた韓国ドラマのイメージですけど)ちょっとコテコテすぎるんでは、と思うものが多かったが、ふと気がついてみると、2020年代の韓国ドラマはものすごく洗練されたナチュラルなストーリーになっていた。(まあ、「不時着」の北朝鮮に不時着するという点はかなり無理をしているといわざるをえないが、そこだけ目をつぶれば十分興ざめせずに見ることができるのである。)

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 最初私は「愛の不時着」を見ながら、ちょうど自分がテレワーク過労で孤独で身体的にきつくて死にそうだったこともあって、リ・ジョンヒョクみたいな強い男性に守られたいという欲望からこれにハマっているのだろうかと思っていたのだが、よく考えると、リ・ジョンヒョクはそんなに強くもなかった。いや、強いけど。強いけどやはり相手はもっと強い国家とか軍とか組織だったりするから、孤軍奮闘だと何もかもできるというわけでもない。実際に、彼も撃たれてしまうし、彼がもっとも守りたいヒロインに逆に守られてしまう。案外肝心なところで何もしないヒーローなのである。
 他方で「椿の花咲く頃」でも、サスペンスのストーリーラインでは、ヒーローのヨンシクはそんなに頭が回るわけでもなく、強くもなく、発砲もせず、驚異的な働きはしない。最後に犯人と対峙し、決定的な働きをするのは、ヒーローではなく、ヒロインのほうである。決定的な場面で、いつもヨンシクは遅れて登場する。

 どちらのドラマも最終的には、女性の主人公が自力でなんとかする、というのが、核にあるのだった。じゃあ男は何をしているのか、というと、そこに至るまでに、恋愛関係の中で女に自信を与えたり、癒やしを与える役割を担う。あなたはすばらしいんだから、きれいなんだから、強い女性なんだから、と励ましたり応援したり、料理を作り、コーヒーをいれ、仲間と過ごす時間を見守り、よく食べよく眠れ、散歩しろ、仕事ばかりしてないで体操しろ、とメッセージを送ったりする。ほとんどお母さんである。

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 6月終わりのある日だったと思うが、朝のろのろと起きて、夕べ疲れ果てて洗えなかった皿を洗いながら、私はふと思った。結局「不時着」にハマっているのは、「よく食べ、よく眠れ」とかそういうことを言われたい無数の女たちなのだろうか、と。そうしたら、なぜか、どっと涙が出てきた。ドラマの向こうにいる、無数の「私たち」に不意に共感してしまったのだった。もちろん本当にそういう視聴者がいるのかはわからない。私のただの思い込みかもしれない。それでもなぜか、私はしばらく泣き続けた。ドラマに感動したわけではなく、スマートフォンのなかのドラマを見つめるたくさんの「私たち」を想像すると、涙が止まらなかった。30分後にオンラインミーティングの開始時刻だったのに。

 「ちゃんと食べなさい」とか「眠りなさい」とかいうような、何気ない気遣う言葉を、「私たち」は大人になるとほとんど言われなくなる。「私たち」は、自分でそれらを管理しながら、毎朝自分の仕事に向かう。それが当たり前の大人の姿だと思ってきた。それができて当たり前だと思ってきた。それが自立だと思ってきた。でも、そうでもないのかもしれない。「ちゃんとご飯食べて」「よく寝て」「よく休んで」「働き過ぎないで」「死なないで」「生きていて」……そういう何気なく思いやってくれる他人の無数の言葉があって初めて、「私たち」は生きていけるのかもしれなかった。本当にフィジカルに守ってくれることより、そうした言葉が、力になるのだ。そんなことは、すでに言い古されているありきたりなことにもみえる。でも、ヒットしたドラマのなかで、ここまで相手を支え思いやるヒーローが出てくるのを見ていると、案外そうした何気ない日々の支えを、「私たち」の多くは調達することに失敗しているのかもしれないな、と思った。

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 もともと自立は、私が目指してきたものだった。男性と同じ待遇で働き、自力で何でもやる。それは私が望んだものであるから私が引き受ける。誰かに代わってほしいわけでは全くない。家族からのケアや干渉も必要ないと思ったし、困ったときだけ助けてもらおうなんてことは思っていない。一人でできることは一人でやりきる。誰かに守ってほしいわけじゃないし、現実問題、男に女は、というより人間に人間は、守れない。

 でも、そうした自立には脆いところがあると、心のどこかで分かってもいる。

 いまどきの韓国ドラマの弱いヒーローたちは、そうした「私たち」の抱える脆さを、思い出させてくれるものなのかも、と思いつつ、今日も私は繰り返し同じドラマを見る。リ・ジョンヒョクやヨンシクのように、完璧にケアして応援してくれるパートナーは、たぶんある種のファンタジーだ。現実にはいない。でも、たぶん。不完全でも少しずつ、自分を癒やし、ケアしてくれる何か・誰かと出会いながら、「私たち」は生きていきたいと思っている。守ってほしいわけではない。自分で自分を守るための力を、いっしょに生み出してくれる何かと出会いたいのだ。人間に人間は守れないが、人間は――「椿の花咲く頃」の言葉を借りれば――人間の奇跡のきっかけになりうるのだろう。

 その意味では、こんな夢中になれるドラマを作ってくれる隣国があるということも、私を癒やし、支えてくれるひとつの奇跡だ。韓国ドラマの何度目かのブームに乗りながら、過労死しないように、今日も私はよく眠ろうと思うのだった。

労働と生活をめぐるエトセトラ:ケン・ローチ監督「家族を想うとき」をみて

 2020年になった。みなさまに幸多からんことを。

 個人的なことを言えば、生まれた干支がまた一巡りして、今年四巡目に入る。「馬齢を重ねる」という言葉があるけれど、馬だってもうちょっと年齢を重ねたら成長するだろうに、と思うくらい、私はおどろくほどの馬鹿のままである。年齢を重ねるだけではかしこくならないな、と思い、暗澹たる気持ちになる。
 2019年に読んだ本のベスト10とか、1年間の自分を振り返るのとかも、なんとなく余裕がなくてできないまま新しい年が走り出してしまった。でも、昨年はわりと本を読めて楽しかった一年だったなと思う。

 そう、引っ越して、わりと過ごしやすい家になり、去年は生活が楽しかった。今から思えば、実家暮らしは、いろいろとよくなかったな、と思う。必要以上に甘えたくはないと思いながらも、軒を借りている時点で借りを作ってしまっているし、食後の皿洗いめんどくさいなと後回しにしていたらいつの間にか親がやってくれたりして気まずかったり、なんとなく他人の力で生きているような感じになってしまうのが精神衛生上よくなかった。今は、すべて自分の会計でやり、家事も好きなようにできるから、気持ちが楽だ。首都圏に実家がある場合、安くはない家賃を払って独立するかどうかはすごく難しい問題であることは分かっているのだが、でも早めに独立したほうが気持ちが楽だったな、と思う。生活形態を変えることができたので、地方に仕事を得たのはとてもよかった。

 去年は、いろいろと変化があった一年だった。大きくは転職と引越し。仕事は、同僚に恵まれて、わりと楽しい。労働条件とか、仕事量の過酷さとは引き換えにすることのできない、なにかポジティヴなものが仕事にはあって、それはなんだろう、と考えている。それがあるおかげで、毎日飽きずに仕事に行くことができるような気がする。

映画の話:ケン・ローチ監督「家族を想うとき(原題:Sorry, We missed you)」

 正月休みのあいだに、映画館で、ケン・ローチ監督「家族を想うとき」(イギリス、2019)をみる。ケン・ローチ作品を見たのは初めてなので、この監督のことや過去の作品のことを知らず、レビューというほどのなにかは書けないけれど、感想を書きとめておく。
https://www.imdb.com/title/tt8359816/

 舞台はイギリスの地方都市。過酷な労働条件を「自営」(業務委託)というラベルのもとでのみこまされて働く底辺配送ワーカーと、その家族の物語である。


 フランチャイズの宅配便配達員として「自営」で働くことにしたリッキーは、デバイスで指示されたルートに従って週6日、一日14時間、荷物を配送する。行く先々で家々でいろんなひとと出会う。指定配送時間を守らねばならないため、配送スケジュールは過酷で、トイレに行く暇も与えられていない。ペットボトルの尿瓶で用を足しながら、指示された荷物を指定の時間に届けなければならない。欠勤すると制裁金を取られるため、何があっても週6日一日14時間の労働を休むことができない。家族のトラブルがあるたびに仕事との間で苦しみ、やむを得ない事情であれ、休めば休むほど制裁金や罰金が積み上がっていく。思春期の子どもたちを抱えた4人家族は、両親の過酷な労働のもとで少しずつすり減っていく。

 見終わったあと、あまりのストーリーの救いのなさに、なんなんだこの映画はと思って、私は憮然とした顔でエンドロールをみていた。この監督は何を見せたかったんだろう、と映画館の階段を降りながら考えていて、ふと、もしかすると生活の細かな部分を見せたい映画だったのかな、と思う。

 たとえば、一家が住まう小さな家に誰かが帰ってくると、玄関でコートを脱ぎ、かけて、自分の鍵を置く。そのシーンが同じアングルで何度か繰り返し現れる。鍵置き場に誰の鍵があるかで、誰が帰っているか、誰が出て行っているかがわかる。あのシーンを見ると、小さな家で、家族のルーティンが機能していることがわかる。
 あるいは、土曜日に父親の仕事についていき、一緒に配送バンに乗り、配送管理デバイスの扱いに早速慣れてしまいながら、「このデバイスで全部管理できるなら、トイレに行く時間も管理できそうなものだけどね」と真を突く発言を繰り返す慧い娘の、夕陽を受けて光るまつげ。今日はすごく楽しかった、また一緒に配達に行きたい、という横顔。
 あるいはまた、介護ワーカーの妻マギーが、多忙を極める日々の中で、クライアントの老婆に自分の髪を梳かせている姿。彼女はせわしない訪問介護の労働のなかで「母に接するように介護する」を自分のルールにして、お年寄りからも慕われている。配送ワーカーのリッキーだって真面目に仕事をし、行く先々で様々なひとと出会い、嫌な出会いもあるけどいい出会いもたくさんある。
 はたまた、どこか知らない遠くの街へ行く、ガールフレンドともいえないような女友達を見送るティーンエイジャーの息子。彼らはキスをすることもない。というのはただの友だちだから。さよならをしてから、はじめて、さみしい、と気づくその時の顔。
 家出した息子の部屋で、息子の描いた絵をみて「知らない世界だな」という両親。そして、ケガをした父親を気遣う息子。
 ひとが生きているというのは、そうした細部の集積だ。過酷な労働が繰り返される日常の中にあってさえ、輝く瞬間が見出されてしまう。大掴みにリッキーの家族の境遇をつかむなら、底辺労働者一家かもしれないし、最後まで救いがないように見えてしまう。人生という物語はクソかもしれない。ただ、そういう「物語」には拾いきれない細部があって、それらが、少なくとも人間のゆるがせにできない一部分をかたちづくる。家族の思いがけなく楽しい1日とか、何気なく守られるルーティンがあり、愛する誰かがいるかぎり。だから、労働がいかにひとを蝕んでいっても、この映画の登場人物たちの疲弊は、そこまでクリティカルには見えない。途中に小さな輝きで何度も救われていくからだ。ラストシーンは悲壮な感じがするけれど、それでも、それさえも、この家族の賢明で健全な様子がそこにはあり、完全に壊れてはみえないところに、やはりやるせなさが残る。
 ただ、今は健全に見える家族でも、取り返しのつかない崖はすぐそばにある。親のどちらかが過労で突如病気になったら? 父親がちょっとボーッとしていて左右を見ないで運転してしまったら? すべてが変わってしまう。リッキーの一家が、命がなくなるぎりぎりのところで生きざるを得ないひとびとであることに変わりはない。
 薄氷を踏むように続く労働者の生活を、おそらくこの映画は描こうとしている。物語としてまとめ上げるならば、それは悲惨な調子をもつだろう。だけれども、すべてが悲惨に呑みこまれるわけではない。暮らしのなかにある繰り返しや、労働のなかの美しい瞬間があり、それが小さくても強度をもつ抵抗になりえる・・・・・・のだろうか。いや、でもなあ・・・・・・やはり人間の生命を瀬戸際まで追い込む労働の過酷さはいかんともしがたく、人間らしさを仮借なく奪っていってしまっている。労働によって少しずつ生活が軋まされていくが、それでもすぐにすべてが奪われるわけではない。そうした様子を描いた映画だった、と私は理解した。
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 人が仕事や労働の中でめぐりあう小さなよろこびや出会いはたしかにある。しかし労働は人間の人間らしさを奪い取るものでもある。その二つの側面はどう関係しているのか。あるいはまったく関係していないような気もする。最近ずっと考えているけど答えは出ていない。

旅の記録(2019年11月/草津町)その2

引き続き、草津への旅行の記録。

その1はこちら↓。

ecua.hatenablog.com

【二日目】
 朝7時半頃起きる。窓の外を子どもが走って行く声がする。平日だから、草津の子どもたちも学校へいくのだ。起きて、宿の風呂に入る。湯畑源泉から引いている温泉だということだった。今回の宿は、合宿所のような宿で、部屋は4畳半にこたつとテレビがあるきりで、トイレは共用。洗面台も外で、誰かが歯磨きをしたあとなのか、ご飯粒のかけらが流れないで溜まっている。部屋の鍵もじゅうぶんにはしまらない。こういうのも懐かしいな、と思いつつ、でも楽しいかっていうとそんな楽しくはないので、次回は別の宿にしようと思う。前夜の夕飯に引き続き、朝ご飯もやはり大盛りであった。
 9時半頃チェックアウトして、10時から開くという「リーかあさま記念館」を目指してふらふらと散策する。コンウォール・リー頌徳公園という公園があり、その公園で少し紅葉を観賞し、コンウォール・リーさんの胸像をみる。

 10時過ぎに、リーかあさま記念館へいく。小さな資料室だった。行くと、ガイドのかたがコンウォール・リーさんの功績についての短いビデオを見せてくれる。そして、コンウォール・リーさんと、草津ハンセン病の歴史についてかなり詳しく解説してくださった。私は、湯ノ沢地区から栗生楽泉園への移住にいちばん関心があったので、湯ノ沢地区とコンウォール・リーが行ったバルナバ・ミッションの施設を示しながら、地図で説明してくださったのがとても有り難かった。
 いろいろとコンウォール・リーの事跡を聞いたが、一つ印象的だったのは、彼女がまず初めに取り掛かったのが女性のためのホームを作ったということだった。ハンセン病の罹患者は男性のほうが多く、湯ノ沢地区では少数であった女性が苦しい立場に置かれており、コンウォール・リーはまず独身女子のための居住空間を作ったのだそうだ。当時コンウォール・リーは50代なかば。どんな気持ちで、極東の島国の、さらに奥地も奥地の雪深い草津で、最初に女子に目を向けてホームをつくったのだろうか、と考える。もうちょっとこの人のことを知りたい、と思う。
 
 「リーかあさま記念館」では、コンウォール・リーさんのことだけではなく、ハンセン病一般や草津温泉のことについてもいろいろと教えていただいた。草津温泉の開湯伝説はいろいろとあるが、草津に湯治にきた記録として確認できるのは、大谷吉継という福井の武将が、直江兼続にあてた書簡があるらしい。その書簡に大谷は、草津に目の治療に来て、少しよくなったと書いているという。それを考えると、おそらく1500年代後半にはここは温泉地であったことはたしかだろう、ということだった。大谷は覆面をして絵に残っており、おそらくハンセン病だったのではないか、ともいわれているそうだ。


 歴史の中で、多くのひとがハンセン病にかかり、病原菌などがもちろん分からないなかで、それぞれが苦労して少しでも自分の身体に良いことを求めて、旅をしていたことを思う。故郷を追われることを余儀なくされて、家族に迷惑をかけられないとやむにやまれずに出奔したひともいただろう。そちらのほうが多いかもしれない。以前、三重・和歌山の熊野地方に行った時も、ハンセン病の湯治客や旅人がいたという話を聞いた。ハンセン病は、内臓は侵さず、比較的温度の低い皮膚のしたや感覚器官を冒す菌だという。だから殺菌力の高い酸性の温泉に入ると皮膚病などが少し良くなった感じがあったのかもしれない。その感じを求めて、多くのひとが温泉地へ集まった。自分の病を治したかった人だけではなかっただろう。「天刑病」と言われたり「遺伝病」と言われたりしたハンセン病の患者は、家族に迷惑をかけないために故郷を出ざるをえなかった人が多かったはずだ。患者たちは、家族と一緒に生まれ故郷で過ごすことを諦め、死んでから一緒に墓に入ることさえ許されなかった。火葬場の煙として、はじめて故郷に帰れる……そんな患者が、何百年も前から日本の至るところにいた。

 近代化の過程でそれらの人びとは「医療」の名のもとで展開される差別的処遇に取り込まれていくことになる。

 少し面白かったのは、これもガイドのかたに伺ったことだが、明治時代以前からハンセン病の湯治客を受け入れてきた草津からは、ハンセン病の患者は出ていないのだという。だから、ハンセン病感染症だということが分かり、療養所が作られるとなったとき「まさかうつる病気だなんて」と草津の人が言ったのだそうだ。感染症であるなんて誰も考えたことがなく、草津では健康な人と病人とが同じお湯に浸かってきた。それは人道的配慮でもなんでもなく、病人は草津温泉を支える収入源のひとつでもあったのだ。ハンセン病は伝染らないという前近代の素朴な経験則が、ある意味では正しかったということになる。(もちろん、うつらないというわけではなくて、免疫とか栄養状態が悪ければ伝染して発症する。インドやブラジルなどでは、今もハンセン病の患者は増え続けており、感染対策が必要な病気である。)

 今回の旅で、湯ノ沢地区のような自由療養地区が、町の公認のもとで成立していたと言うことを知った。草津で病人を含んで成立していた経済が、隔離へと変化していく過程とはどのようなものだったのか。もっと詳しく知りたいと思った。勉強しようと思う。

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 リーかあさま記念館に結局1時間ほどいて、その後、旧湯ノ沢地区をしばらくふらふらした。それから、「大滝乃湯」という温泉施設にも行ってみる。これはTwitterでukentaさんに教えてもらった。入場料は900円。鍵のかかるロッカーが有料で100円だった。午前中であったので、あまり人がおらず、ゆっくり浸かることができた。露天風呂があったのでそこにもいく。明るい屋外を裸で歩く経験はあまりない。熊がここに出たらどう闘うか、と考えつつ露天風呂に浸かった。多分大怪我をするか死ぬだろうな、と思った。さいわい熊は出なかった。

 草津には、入場料のかかる温泉施設と、無料の公共の浴場がある。1日目の夜に行った「白旗の湯」は無料の公共の浴場。脱衣所と湯舟しかなく、頭や身体をあらったりすることはできない。本当に純粋にお湯を楽しむだけの場所だ。温泉地らしい温泉、といえばそうかもしれない。入り方としては、宿の内湯とか、有料施設とかで、一度身体をきれいにして、あとは無料の公共の浴場を回るのが楽しいのではないかと思った。湧き出している源泉によって、お湯の感じも異なり、面白い。今回は白旗の湯しか行けなかったが、ほかの温泉も行ってみたいと思った。

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 13:15のバスで草津温泉をあとにし、長野原草津口駅にむかった。草津から駅へのバスはとくに連絡をしておらず、40分近く待った。待合室には、中之条町長野原町の観光パンフレットがたくさんおいてある。八ッ場ダムのパンフレットが二種類あったので、それをもらう。14:21長野原草津口駅発の吾妻線に乗り、隣駅の川原湯温泉駅に向かう。川原湯によろうと思ったのは、八ッ場ダムを見ようと思ったからだ。

 14:30ごろ、川原湯温泉駅に着き、駅を降りたところでレンタサイクルをしていたので借りた。レンタサイクル事業は、夏場や紅葉のシーズンなどに社会実験として行われているイレギュラーなものであるとのことだった。普段は、駅から徒歩20分の「道の駅八ッ場ふるさと館」で借りることができる、とインターネットにはあった。

 自転車で八ッ場ダムをぐるりと回った。まずは八ッ場大橋。ダムには、茶色く濁った水が溜まっていた。ネットで見た「満水」という状態よりはだいぶ減っていた。放水して、試験湛水の本来の姿に戻そうとしているところなのだろう。

 橋のたもと、川原湯地区側に「なるほど!八ッ場資料館」という資料館があった。これがとてもよくできた資料館だった。八ッ場ダムの建設の経緯などがよく整理されてまとめられている。

 プレハブの広くはない資料館だが、壁の上のほうに、ダムになってなくなってしまった旧温泉街(温泉自体は高台に移転して営業している)の写真が飾ってあり、なんとなくその明るい何気ない温泉街はもうないんだ、と思った。ただ、それはあくまで写真コンテストの入賞作としての展示であって、ダムに沈む前に人びとのどんな暮らしがあったのかについて主題的な展示はほぼない。もちろんここは、国土交通省がやっているダムの資料館だ。だからダムの工法や意義について解説してあるのはいいのだが、それが壊さなければならなかったもの、人びとの暮らしの展示ももう少しあってもよいのではないか、と考えた。
 八ッ場大橋、八ッ場見放台(展望台)、道の駅八ッ場ふるさと館、不動大橋と、ダムをぐるりと一周した。どこもそれなりに観光客がいたのが驚きだった。このレンタサイクル事業もそうだが、観光振興とセットでダム開発が行われてきたのだということを何度も感じた。川原湯温泉の町の人たちの経済を維持する、ということにかなりお金をかけている。
 どこまでも続く茶色い湖を見ながら、なにかとなにかを引き換えにする、ということがこの土地でおこなわれたのだなということをひしと感じた。そこで引き換えられたものが本当に等価か等価以上のものであったのかは、誰にもわからない。というか、その評価の仕方さえわからないものかもしれない。ダムが本当に必要なのかということも、専門家のあいだで見解は分かれるだろう。ダムの機能的側面についてもそうだし、生活の質のようなものを考えても、八ッ場の谷筋で暮らしていた町の人びとが、高台移転で得たものと失ったものをどう測れば適正なのかはわからない。
 でももうすでに巨大なダムはできていて、後戻りはできない。人間が為し、作りあげたものを、人間はどう評価することができるんだろう。

 私が八ッ場ダムの問題を知ったのは、2005年頃で、大学で知り合ったほぼ唯一の友人であった遥ちゃんが教えてくれたのだった。彼女は環境問題に関心を持っていた。科学思想史の授業で知り合って、私も一緒に環境問題の勉強会や集会に参加していたのだが、彼女は私よりずっと真摯なひとで、まっすぐに活動すればするほど、何も動かない社会への憤りが増えていくようにみえた。何をしてもいい加減な私はいまも生きて、完全に観光気分で15年も経ってから八ッ場ダムを見に来ている。それで、問題がでかすぎるし複雑すぎて考えきれない、とか思っている。彼女は当時、どう思っていたんだろう。もう会うことは叶わないのだが、また彼女に会いたい、と思った。

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八ッ場ダムの茶色い湖面。(橋は不動大橋)

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ダム湖岸のすすき。

 ***
 16:30に自転車を返し、16:44の吾妻線に乗った。電車の中ではずっと寝ていたような気がする。たまに起きて、図書館の本を検索して、草津の関連書籍何冊かに予約をかけた。論文もいくつかダウンロードしたりした。

 たった一泊二日の行き当たりばったりの旅だったが、ものすごくいろいろなことを考えた旅だった。頭のなかにいろんなものがスコン、スコンと入ってきた。その場所に行って分かることは、多い、と改めて思う。草津のことをまだ少ししか知らないので、またよく勉強して、再び訪ねたいと思う。

旅の記録(2019年11月/草津町)その1

 1泊2日で草津町に旅行に行った。書いておかないと忘れてしまうから、旅の記録を書いておく。

【1日目】
 高崎駅で8時53分発の吾妻線に乗る。遠足に行く中学校の1年生の5人+先生という一団と、ずっと一緒だった。いい雰囲気の5人組だった。

 吾妻線は、台風19号の影響で長野原草津口大前駅間は運休しているのだが、草津の入り口である長野原草津口駅までは運転している。長野原草津口で降りて、バスに乗り換える。吾妻線とバスは時刻表が連絡していて、あいだにトイレに行く時間もほぼなくてすぐにバスが走り出した。バスはICカードが使えた。11時頃、草津に着く。宿はとってあったが、どこを見て何をするかは何も決めていなかった。今回は草津に初めて来たので、とにかく草津を知ろうと思っていた。まずはどんなところか知ろうと、下調べのような気持ちで来たのだった。

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 草津バスターミナルで、たまたま、「重監房資料館」という看板を見る。ああ、草津にはハンセン病療養所があるんだ、と思い出す。「重監房資料館」はその療養所に併設されていた監房の非人道さを伝えるための資料館らしい。歩けない距離ではないし、今日の午後はここに行ってみよう、と思う。
 バスターミナルの3階には、「温泉図書館」があるらしい。ものすごく興味をひかれたが、到着した木曜日は休みだった。また来よう、と思う。

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 草津観光の中心地、湯畑まで歩く。硫黄の匂いが鼻につき、前日までこの旅行に来るために残業に残業を重ねほとんど寝ていなかったからか、気持ち悪さを覚える。

 お腹が空いていたので、湯畑の近くのそば屋で食べるが、失敗だった。このあたりでは、舞茸が名物なのか、どの店も舞茸天と書いていた。私も舞茸天のついたそばにしたが、私の入った店の舞茸天はひたすら油っぽかった。観光地の食事は難しい。*1

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湯畑。ここが草津観光の中心地で、迷ったらここに戻れば良いのだった。

 荷物を宿に置かせてもらい、重監房資料館まで歩く。3.5キロくらい。この時はまだ、草津ハンセン病の歴史に関する知識はゼロだった。
 途中で墓地があり、「コンウォール・リー女史の墓所」と書いてある場所があった。十字架のついた納骨堂があり、その前にベンチが並んでいる。ちょっと疲れたので、そこで休む。コンウォール・リーというひとのことは知らなかったが、説明書きにはハンセン病患者に尽くした「教母」と書いてある。キリスト教の伝道活動や奉仕活動をした人だろうか、という程度の認識で、お墓の前で休ませてもらった。キツツキ的な鳥がいた。キツツキ、初めて見るかも、と思う。風にのってトチノキの大きな葉が後から後から乾いた音を立てて落ちてくる。草津は紅葉の美しい季節になりかけていた。

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重監房資料館への道。

 小一時間歩き、東工大草津白根山観測所をすぎると、すぐとなりが栗生楽泉園の門だった。資料館へはもう少し先まで歩いて、曲がる。道で、きれいな鈴の音が聞こえる。なんの音だろう、と思う。

 重監房資料館に着くと、見学者はわたしひとりで、職員の方がビデオを見せてくれた。ハンセン病一般の説明と、隔離政策、それに対する国の謝罪、名誉回復の経緯、そして、「重監房」の説明のビデオだった。重監房というのは、全国で栗生楽泉園にだけあった施設で、全国から「反抗的」だったり「不良」とされた患者が送られ、懲罰として収容されていた独房である。

 粗末なコンクリート造りで、冷暖房もなく、外が見える窓もない。冬期には氷点下20℃近くなる草津で、防寒設備は何もなく、明かりとりの窓と、食事を入れるために部屋にあいた穴から雪が容赦なく降り込んだという。冬用の布団も支給されず、厳寒期には布団が凍りつき、凍死するものも少なくなかったそうだ。重監房が設置されていた1938年から1947年の9年間の間に、93人が収容された記録があり、23人が収監中ないし収監を解かれてから1年以内に亡くなるような、過酷な独房だった。
 重監房資料館には、遺構から再現された重監房の一部がある。それから、収容された人の名前と収監理由、その後が紹介されている。資料館には、栗生楽泉園やハンセン病についての解説展示もあったが、「重監房」という非人道的な施設の紹介に重きを置いた資料館であった。
 展示の見所は、重監房に関わった患者らの証言である。重監房に収容された患者の世話をするのは、外にいる別の患者だった。重監房についてのオフィシャルな書類はほぼ失われているので、重監房のことを知る手がかりになるのは、そうした元患者らの証言しかない。資料館はそうした証言を主たる資料として構成されている。

 その証言のなかに、「収容されているのが草津の人だったら周りのひとが出してくれって嘆願もするけれど、そうでないひとはどこの誰が入っているのかもわからず長期化する傾向があった」というようなものがあった。元から草津にいた人であれば顔を知っているから、出してくれ、という運動もできるが、どこから来た誰なのかも分からないひとにはそういう運動も起こりようがない。方言からわずかに、南の方の人だな、とわかるだけだった、という証言もあった。熊本(本妙寺事件のあとに送られた者が複数いた)など、日本各地から人知れず送られてきて、重監房で人知れず死んでいった人も多かっただろう。期間は、長い人で550日近く。粗末な4畳半ほどの狭い部屋で、食事も少量しかあたえられないなかで長期間収監された患者は歩けなくなったり他の病気にさらにかかったりもしたという。「特別病室」と名付けられてはいたものの、医務室が使われた形跡はなく、医療的行為はほとんど行わなかった。
 1947年に「特別病室」が人権問題として患者団体から訴えられ、国会でも問題になる。(国会議員の視察の様子が、「日本ニュース」の1947年の91号(11月か12月頃か?)に残っている。)そして、その後、重監房は使われなくなり、粗末なコンクリ作りの監房は自然に朽ちて、なくなった。
 
 そういうことが一気に勉強できる施設が「重監房資料館」だ。厚生労働省が設置した国立の資料館である。
 重監房の非人道性について「日本のアウシュビッツ」と形容されている証言者の方もいた。なぜ日本政府は、病人にこんな非人道的な措置を行うことができたのか、意味が分からないというのが見学したあとの正直な気持ちだった。資料が残っていないせいもあるのだろうが、重監房という殺人的ともいえる激烈な懲罰がなぜなされたのかは、よくわかっていないようだった。この意図のわからない暴力は私を困惑させる。ハンセン病という感染症にかかっただけの人である。療養所に入りたくないと反抗したり、薬物中毒だったとか理由は書いてあるが、そんなことで、過酷な独房に入れて殺すようなことがなぜできたのか? 誰が決定していたのか? なぜ当時も曲がりなりにも法治国家であったはずの日本は、それを黙認していたのか? 

 重監房が設置された1938年は、国民皆保険の礎となる法律「昭和13年4月1日法律第60号」が制定された年である。日本が福祉国家として歩き始めたその裏で、ハンセン病患者は隔離され、死へと追いやられていった。その時日本で何が起こっていたのかは、もっと勉強しなくてはならない、と思う。分からないことがたくさんありすぎるのだった。

 重監房資料館は、冬期は団体のみとなるが、春から秋にかけては個人でいつでも訪問することができる。証言ビデオのコーナーが見応えがあるので、証言ビデオをぜひ見てみてほしい。

sjpm.hansen-dis.jp


 
 資料館の外に出ると、穏やかな秋の日が続いている。栗生楽泉園の外周の散策路を、ぐるりと一周した。分かれ道のひとつひとつに、電子音の流れる装置がある。病気のため目が見えなくなってしまった人を誘導するための音響装置であることに、後から気づいた。最初の鈴の音もそうだったのかしら、と思う。
 楽泉園内の社会交流館も見学させてもらった。こちらは草津と栗生楽泉園じたいの歴史が展示されている。メアリ・ヘレナ・コンウォール・リーというひとは、英国人のキリスト者で、草津・湯ノ沢地区に集住していたハンセン病患者の生活環境をよくするための活動(バルナバ・ミッション)に私財を投じ、晩年を捧げた人物であると知った。
 古くから、草津の酸性の湯が皮膚の病に効くということでたくさんのハンセン病患者が集まり、草津の旅館はその湯治客で潤っていた。一方で、患者ではない客が離れていくことを防ぐために町は患者を湯ノ沢地区という当時の町外れに集住させた。そこで患者たちは自ら生計をたて、暮らすようになる。1907年に「癩予防に関する件」、1931年「らい予防法」と法律ができ、1929年からの各自治体の「無癩県運動」など、国の隔離政策が具現化していくにつれて、湯ノ沢地区の人びとはさらに2キロほど離れた栗生楽泉園への移住を余儀なくされた。それでもすでに湯ノ沢地区に家を建て、生活の基盤を作っていた人はそう簡単には移住することはできなかったが、栗生楽泉園の下地区に、自由療養区を設けることによって、徐々に移転が進められていく。湯ノ沢地区は、昭和16年ごろに解散することになる。湯ノ沢地区の解散の少し前に、コンウォール・リーは高齢のため草津を離任し、晩年を明石で過ごし1941年に日本で亡くなった。(この辺の史実については、展示をみて得た記憶によって書いているので、正確でない場合がある。これから勉強しようと思っている。)

 外周の散策コースの最後に、重監房の遺構にも立ち寄る。クマザサの茂るなかを歩いていくと、田の字型に句切られたコンクリートの基礎だけが残っている。なぜこんな場所があったのか。もっと勉強しなければならない、と思いつつ、草津の中心部の方へ、3.5キロ歩いて帰った。
 だいぶ街中に近づいてきたとき、途中の電柱に、「草津バルナバ教会」という看板を見つけた。これはコンウォール・リーの開いた教会の名前だ、と思い、道を入っていくと、教会のような建物があった。その脇に、「リーかあさま記念館」とある。これはコンウォール・リーの記念館か、と入りたくなるが、開館時間はもう終わっていた。明日来よう、と思って宿に帰った。
 昼12時に歩き始めてから、帰ってきたのは17時前だった。

 夜、宿の夕飯を食べる。そこまでおいしくはなかったが、量がものすごかった。
 その後、布団を敷きに来てくれた宿の人と話していたら、その方が川原湯温泉の方の出身だと言っていて、ああ川原湯温泉って八ッ場ダムの、と言ったら、川原湯温泉はあれは失敗したと思っているんだけど、といいつつ、八ッ場ダムが台風の日に一気に満水になりきっと下流の洪水を救っただろうという話をしていた。どんな風に失敗だと思っているのかは聞かなかった。

 夜9時頃、宿を出て「白旗の湯」へ行く。湯畑のほぼ目の前にある。脱衣所と、湯舟が二つ、水の出る水道があるだけの浴場だった。白く濁った湯舟に身を沈めると、全身が溶けるようななんともいえない心地よさがあった。酸性度がかなり高いらしく、肌に当たる湯がぬるりとした感じがする。同時に入っていた70代くらいのご婦人が、「あぁ、いいお湯ねえ」と言っていた。ああ、そう言えばいいのか、と思った。とてもいいお湯だった。草津で入った温泉のなかで、この夜の白旗の湯がいちばん気持ちがよかったと思う。何度もあがりながら、少し身体を冷まして、何度も入った。ちょっと温まりすぎたかも知れない。

 宿に帰ると22時くらい。明日の予定を考えつつ、寝た。寝たが、温まりすぎたためか身体が熱く、なかなか眠りにつけなかった。部屋のポットから何度も白湯を飲む。多分寝たのは3時ぐらいだったと思う。

(その2に続く)
 

ecua.hatenablog.com

*1:あとで、草津のエキスパート@ukentaさんに「どんぐり」という洋食レストランがおいしいよ、と伺った。次回は「どんぐり」にしようと思う。

変わる景色と変わらないひと――映画:賈樟柯「帰れない二人」(2018)

ジャ・ジャンクー賈樟柯 Jia ZhangKe)「帰れない二人」(原題 江湖儿女 /英題 Ash is Purest White)、2018.

www.imdb.com

深くなってきた秋の日、映画館で見る。
予告編を見たときに気になっていたもの。ジャ・ジャンクーは以前、「罪の手ざわり」をBunkamuraル・シネマで見たことがあった。なぜかあまり印象に残っていないのだが、冒頭のトマトのシーンとか、中国の田舎の映像がとにかく美しかった記憶があった。


今回の「帰れない二人」も、中国の壮大な風景に何度も目を奪われた。ある意味で、風景を見る映画なのかもしれない。
というのは、あまり複雑なストーリーはないからだ。予告編を見ればだいたいそれがすべてだ。大枠だけ書く(何も知らない状態で映画を見たい人は、ここでこの記事を読むのをやめ、映画を見た後に読んでほしいと断っておく)。2001年、山西省の大同市で暮らしていた「渡世人」のビン(リャオ・ファン)とチャオ(チャオ・タオ)のカップル。チャオは抗争に巻き込まれたビンを助けるために、ビンのピストルを撃ち、服役する。チャオはピストルの持ち主がビンだと口を割らず、自分のだと言い張ったため、罪が重くなり、刑期はビンより長かった。2006年、刑期を勤め上げたチャオは、ビンがいるという三峡ダムのほとりの街、奉節に赴く。そこで紆余曲折ありながらも5年ぶりにビンと出逢い、すでに新しい生活を始めていたビンと別れる。最後は、2017年。ふるさとの山西省、大同にも新幹線が通り、チャオは独身のまま元いた雀荘の女主人となっている。そこに脳梗塞で半身麻痺になったビンが帰ってくる。チャオが探してきた病院に通い、リハビリを行い、療養ののち、歩けるようになったビンは、「出て行くよ」というボイスメッセージをチャオに残し、出て行く。

まあ物語としては、それだけの映画なのであった。映画は、2001年から2017年という、17年ばかりの歳月を、中国の経済的な成長の風景を背景にして、描いていく。変化を描くために、少し説明的な描写もおりおりに挟まっている。炭鉱の閉鎖にともなう移住とか、貯水されるまえの三峡ダム(いつどうやって撮影したのか分からないけど)から移住させられる人びととか。2017年の場面では、医者と、ぼろぼろの田舎の診察室で、QRコードを介してチャットのアカウントを交換し合う。チャオが唯一笑う穏やかな場面も、ビンとのチャットの場面で現れる。ビンと仲間のケンカが起これば、そこにいる人はカメラで動画を撮る。2001年にはなかったテクノロジーが、二人を、そして中国の人びとをとりまいている。予告編でも強調されるように、本作は記録映画の側面ももつ。

テクノロジーや風景は変わっていく一方で、人間そのものの変わらなさにうんざりする。
ビンとチャオが邂逅する場面が、2006年、2017年の2回あるのだけど、いずれにおいても、ビンはチャオの目をみない。いつも、チャオとは違う方を向いている。ビンの語っていることも、チャオのことを思いやるセリフはほとんどない。2006年の場面では、刑期を被ってくれてありがとう、とか、ごめんな、とか、ひとことありそうなものだが、一切ない。感情を吐露するセリフが少しあるが、それも、出所後の自分がどれだけ惨めだったかを語るというだけだ。チャオが貫いた思いをみている私たちの目には、ビンの独白が白々しく映る。おそらくチャオもそうだっただろう。

その2006年の奉節の木賃宿のシーンは、本作のひとつのクライマックスである。火を跨いで厄を落とそう、というとき、ビンはビンなりに、必死にチャオの人生を良いものにしようとしているのだが、そういうことじゃないやろ、とみている私は思う。そういうことじゃない、ときっとチャオも思っている。だけど、同時に、こういうことしかできない人なんだ、とも気がついている。チャオはビンの手をとり、彼を受け入れ、別れを受け入れる。ビンの心の純真さ、チャオの心の優しさ。それが二人の俳優の演技から、否応なく伝わってくる。

チャオとビンの関係は、「愛」と呼ぶべきなのかはよくわからないけど、お互いを必要としている関係であることはたしかだったのだと思う。性愛描写は一切ないのだが、冒頭でわりと長く描かれる大同での2001年の二人の日々の言葉少なな描写は、それを伝えていたのだな、と後から気づく。恋人というよりは、きょうだいのような、魂の双子のような関係のふたりである。

お互いにお互いを必要としているのに、しかしビンはいつもチャオの元を去って行く。しかも、何も言わずに。なんでそうなっちゃうんだろう、と考える。

おそらくそれは、チャオのほうがビンをいつも助けてしまうからか、と思う。チャオは度胸があって機転が利いて、ここぞというときにハッとするような豪胆な策略で危機を切り抜ける(そのチャオの豪胆さが本作のみどころの一つだ)。そして、自分の命を自分で救うばかりか、ビンのことを助けてしまう。ビンはたぶん、助けてもらうことに耐えられない。なんでだろう? プライド?と最初思ったけれど、そもそもプライドってなんだろう、と思うと、心がきれいすぎることか、と思う。相手に何かをしてもらうと、それを自分は返さなければならないと思うが、相手がしてくれたものが大きすぎるとき、自分の小ささでは返せないことが実感され、どうにも動けなくなる。「刑期を被らせてごめんな」と言えないのは、それを言ったぐらいでは何も返せないとビンが思っているからだろう。相手にかけた苦労に対して、言葉が真正な報いにはならないと思っている。そして、何も言えない、何も出来ない。相手が大切なひとであればあるほど、返すものの大きさの前に、何も返せなる。ビンは、チャオに返すものがありすぎる状態に耐えられず、いつも消えてしまう。

てことは、あの、ビンを助けてピストルを撃った最初の場面で、この二人がどこにもいけないことは決まってしまっている。命を救うような純粋な援助を得てしまった場合、それをなにかで返すことは、もうできない。刑期も被ってもらった。何も言わず介護してくれた。どんどんビンにはチャオに返せない負い目がたまってゆく。そしていつも、かれは消えていくことしかできないのだ。なんなだろう、この、すごいわかるけど、すごいやるせない感じは。救いがどこにもない。

ひとはたぶん、多くの場合、100%の報いにはならなくても言葉で伝えたり贈りものをしたりすることで、ごまかしながら、関係を続けていく。関係の維持はある意味では不純でダーティだ。ただ、関係がごまかしを含めないような純粋なものになってしまうときがあるのだろう。そのときは・・・・・・どっちが消えるか死ぬしかないのかもしれないな、と思う。救いがない、と思ったけれど、最終的にはそれが、もっとも純粋な関係のありかたなのだろうか。純粋な魂であればあるほど、他人と付き合えなくなる。そんなものなのかもしれない。

けど私はそんなのやだよ、チャオには幸せでいてほしかったよ。ビンだって一緒にいることでチャオを幸せにしてるんだよ、存在するだけで返してるんだよ、なんでそれがわからないんだよと、ひとりかなしくなりながら映画館をでて、寒くなってきた街を歩いて帰った。

変わる景色と変わらないひと。そんな、ひとびとを背景に描かれる中国の雄大な景色がとにかく美しい。叙情詩のような映画であった。

 

「遠さ」の効用――映画「シンク・オア・スイム イチかバチかの俺たちの夢」

Le Grand Bain(2018)→「シンク・オア・スイム イチかバチかの俺たちの夢」

www.imdb.com

 なんとなく休みの日の午後に日本語と違う言葉が話されているのが聞きたくなって、近くの映画館でかかっていたこの映画を見にゆく。監督はジル・ルルーシュ(Gilles Lellouche)。2018年、フランス。
 舞台はフランスの地方都市。うつ病になり2年働いていない中年男ベルトラン(Mathieu Amalric)は、市民プールでシンクロナイズドスイミングの男子チームのメンバー募集の貼り紙に惹きつけられる。チームに加入してみると、チームはいろいろな背景のある中年男が集まっているチームだった。
 人生はいろいろある、と言ってしまえばそれまでなのだが、「いろいろ」という言葉の含蓄は深い。ベルトランは鬱で働けなくなって2年が過ぎ、嫌いな義兄のコネで雇ってもらった家具販売店では、すでにベルトランという販売員がいるため「ジャン・リュック」という名前で働くことになる。チームメイトのローラン(Guillaume Canet)は責任ある仕事に就き、美しい家も持っているが、吃音の息子を愛しつつも苛立ちを隠せない。イライラとし続ける夫を美しい家に残して、妻は息子を連れて消えた。老人ホームに預けた母は認知症で、会えば「醜い子、堕ろせばよかった」などのひどい罵倒を息子に浴びせるのが常だ。コーチのデルフィーヌ(Virginie Efira)は、元は国際試合にも出るトップレベルのシンクロ選手だったが、ペアを組む相手のケガでチーム解消となり、競技人生が突然おわる。失意のなかアルコール依存症となったらしいが愛が苦境から立ち直らせてくれた、と思ったがそれは自分の勘違いで、相手からはストーカー扱いされる。
 いや、いろいろある。で、別に、シンクロナイズドスイミングをしたからってそれらの問題が乗り越えられるわけではない。だけど、彼らみんなが、なぜか毎週の練習のためにチームに通ってくる。なんかゆるく楽しい雰囲気があり、仲間のいる楽しさが人生を少しだけ動かしていく。そんな風景を描いたコメディ映画である。


 印象に残ったのは「めんどくさいやつ」という言葉だ。しばしば苛立ち、拗ねてしまうローランは、仲間がゆるく練習していたら「こんなことでよいと思っているのか!」と怒って外に出て行ってしまうようなことを複数回繰り返す。周囲からは「めんどくさいやつ」といつも言われるのだが、でも別に嫌われているわけではない。「おーい、めんどくさいやつ!飲みに行くぞ」と誘われて、また合流する。ちょっと付き合うのにはコツがいって、一筋縄ではいかないやつだが、それでも付き合いが切れない関係がチームにはある。ただ、その一方でローランの結婚生活は破綻してしまう。破綻の原因は説明されないが、「面倒くさいから奥さんにも逃げられるんだ」と仲間からからかわれる。

 「めんどくさいやつ」と字幕が当てられた言葉の、原語のフランス語がなんだったのかは聞きとれなかった。だけれども、なにか言いようのない温かさが耳に残った。

 妻には許容できないローランのめんどくささが、チームメイトだとまあ許容できるとするならば、それはなぜだろう。距離か、遠さか、とふと思う。相手がどんな人でも愛するとか、どんな状態でもそばにいるとか、真面目に考えるとどうしたらそんなことができるんだろう、って思うけど、めんどくさいやつ!とかなんとか言いながら、距離をとりつつやっていけばなんとかなるのかもしれない。
 そう思って思い返せば、映画に出てくる登場人物は、うつ病とか、倒産癖のある中小企業社長とか、中年の夢みるバンドマンとか、アルコール依存のストーカー気質女子とか、近くに居すぎると癖のあるひとびとばかりだ。しかし、ちょっと離れたところから見ると彼らのめんどくささは滑稽で、愛すべき仲間となる、ということを映画は描いていた。その場合近いとか遠いとかってどうやって決まっているんだろう、と考えると、相手とどれくらい関わるかということで、自分の存在がその人に与っているかどうかで測れるのではないかと思う。その人が自分の生活や人格を支えるほどの存在であれば「近い」。その人が潰れると自分も潰れる可能性があったりするから、めんどくさかったり癖のある状態が我慢できない。他方で、その人がどうなっても自分は変わらないぐらいの関係だと「遠い」。ぶっちゃけその人が潰れても構わないから、めんどくささをそのままで愛せる。そして、その遠くからの愛が、その人を支えるような、なんかそんな気がした。


 なんとなく今まで私は、遠い関係は不真面目さを含むような感じがして、人間関係の中で価値の低いものだと思っていた。だけれども、アマチュアスポーツチームのチームメイトのような「遠さ」は、遠いからこそその人を見捨てないで済む面もあるのかもしれない。関係が遠いからこそ、生まれるドラマもあるのではないか。
 裏を返せば、って返してないかも知れないけど、近い関係においても、どこかに遠さを用意しておくことで、長続きするということもあるのかな、と考えたりした。そのままを愛する、ってめちゃくちゃ難しいんだけど、なぜかそれがうまくいっているのがベルトランと妻の関係だったように思う。それはある意味では、妻が夫から距離をとっていたからにも見える。うつ病で夫が働かなくても、妻は妻で仕事をしており、そんなに同情していないのだ。そのために、夫婦には危機は訪れない。

 

 映画はひとつの分かりやすいクライマックスを迎えたあと、もうひとつ静かなクライマックスを迎える。内面で思っていることはみんなバラバラのはずなのだけれど、不思議な一体感がある場面である。一緒にいることでどこか救われるような、遠い関係が作りだした希望が映っていたと思う。